M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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6.飼っていたウサギがいなくなった日

2015-07-18 | エッセイ・シリース

 小学校に入ったころ、僕んちでは十畳ほどの一部屋の住まいの土間で、白いウサギを飼っていた。



 <ウサギ>

 名前を付けていたと思うけれど、もう思い出せない。ウサギが人に慣れるってことはあまり聞かないけれど、このウサギは僕に慣れた。巣箱から、斜めに部屋に橋をかけてやると、その板を渡って座敷にまで上がってきた。掛け声の合図はトントンだったと思う。

 板をかけて、トントンと畳をたたくと、えさの草っぱがもらえると思って、トントンと坂を登ってくる。座敷でよく遊んでいた。ウサギのウンチはポロポロで、臭くは無いし、掃除も簡単だった。僕によくなれていた。大きくなって、白い色がだんだんきれいになって、赤い目とコントラストが目に残る。見ていると、優しい気持ちになれる。やわらかに耳の内側にそっと、独り言を言ってみる。

 お袋は下の姉を連れて家を出て、実家の高知に暮らしたり、また戻ってきたりしていたから、日常のお袋の姿はあまり鮮明ではない。おばあちゃんと僕がいつも一緒だった。親父は家を空けていることが多かったから、ほとんど二人と一匹の暮らし。

 ある日、学校から戻ってみると、トントンがいなくなっていた。おばあちゃんに訊ねたけれど、答えは戻ってこなかった。どこかに遊びに行っているのかも…と思っていた。

 次の日もトントンはいない。変だぞとおばあちゃんに問いただした。小さな声で、売ったんだよと答えが返ってきた。僕んちは本当に貧しかったから、うさぎを肉用に買い取る人に売ったのだ。僕は悲しくなって、目からボロボロ涙が止まらない。僕にとって、初めての動物の友達だったから。

 しばらくは、おばあちゃんと口を利かなかった。

 僕の家は、お寺の門長屋の一間。お金がないから、学校の昼休みには学校から200メートルくらいの距離を駆けて、家に戻った。お昼の芋粥を食べるためだ。お弁当は持って行けなかったし、学校給食もまだ始まっていなかった。おばあちゃんの作ってくれた芋粥で、おなかを膨らせて、また焦って学校まで駆けて帰る。

 学校給食が始まった時は、本当に嬉しかった。もう家まで駆けて帰らなくてもいい。そして、皆と一緒に昼ご飯を食べられる。それがうれしかった。

 その頃の給食は、脱脂粉乳とコッペパン(今のコッペパンとは全く違う)、一個だけだったけれど、それは僕にはご馳走だった。一日の食事の中で、給食が一番おいしいものだったという思いがある。何か、他に一品がついていたかもしれないが、忘れている。

 そういえば、お寺の階段を下りた学校への角の店が、駄菓子屋さんだった。僕には、駄菓子を買う小遣いは貰っていない。たまに何か10円玉かなんかを持ってたりすると、その店に飛び込んで、大きな丸い飴玉をひとつ買った。甘い飴玉なんて、本当にときどきの甘さだったのだから。

 友達と、よく金属片を探したのを今、思い出した。銅の切れ端とか、何でもよかった。集めておいて、町はずれの朝鮮人がやっている屑鉄の買取の店に持っていくと、少しの小遣いが入った。それが、飴玉を買う唯一のカネだったのだろう。

 木になるものは、何でもかっぱらって食べた。柿、柘榴、夏ミカン、ゆずなどだ。見つかると怒られるから、すっとんで逃げた。大人も、ひもじい子供たちを知っていて、見ぬふりをしてくれたのだと思う。

 口にしたけど、食べられそうで、食べられないものがあった。それは、カラタチの実。金柑のような色と形をしているからと食べてみたが、にがくて吐き出した。あれは、本当に食べられなかった。

 給食の質が上がってきたのは、4年生の頃だろう。学校に、給食の調理室が出来たからだ。中身は忘れたけれど、温かいものが、やっと食べられるようになったのだ。それまでは、つめたいものしか出てこなかったのだから、チビの僕たちにとっては、とてもうれしいことだった。



 <昭和27年の脱脂粉乳給食>

 今でも、時々テレビなんかで、まずかった学校給食の代表として、脱脂粉乳の話が出るが、まずいけれど、大切な飲み物だったと思う。おかげで、僕の骨はちゃんと育ったし、身長も日本人男性の平均より高い体を持っている。

 ウサギは誰かに食われてしまったのだろう。でも、二度と、ウサギを飼うということはなかった。きっと、悲しい僕の涙を、おばあちゃんが覚えてくれていたからだろう。



 注:「学校給食」の写真使用許可は、(独)日本スポーツ振興センター学校安全部安全支援課よりいただきました。


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