2月15日付け朝日新聞 be(Red)の連載エッセイ 作家の口福。今回はドリアン助川さん。
文章がファンキー♪ 「経済的困難にコブラツイスト」とか、「バレンボイム指揮でマーラーの重低音がジャーン!」とか。
エッセイは子供の頃にお祖母さまと分け合って食べたクリームパンのお話。買ってきてくれたクリームパンに何故かクリームが入ってなかったそう。
>ここからは私の想像だが、「クリームの入っていないクリームパンを食べられたのも、ひとつの味わいだったね」と祖母は伝えたかったのではないか。笑顔がそう語っていたように思う。
家庭に恵まれずに育ち、結婚も破局に終わった祖母は、クリームの入っていないクリームパンを食べ続けたような人だった。だが、これはこれで味わい深いのさ、と自分に言い聞かせてきたのかもしれない。もしもそうなら、その姿勢は私が継いでいる。勝ち負けではなく、味わうために生きている。
読んでいて涙が出てきてしまった。。祖父母のお話にとにかく弱くて。
お祖母さまを愛して、愛されていたんだなぁ。。と。決してお金では買えない、心が満たされた時間と記憶。
幸せな思い出は、人の心を豊かに奥行きをつくってくれるとしみじみ思う。
FANCL ESPOIR2月号に掲載されていたエッセイ。“言葉でつなげるリレー連載 みずみずしい日々”第10回は井上荒野さんの「ある友情について」でした。
>何かと理由をつけて集まっては飲んだり、食べたり、旅をしたりする仲間がいる。
メンバーは同業者、編集者、それに古本屋(私の夫)。
(中略)
直木賞をもらったとき、私はエッセイに彼らのこと - 受賞の発表を彼らと一緒に待ったこと、受賞の知らせが届いたとき、彼らの歓声と拍手に包まれて、最高に幸せだったこと - を書いた。そうしたら、それを読んだある業界関係者が、「編集者は仕事として作家と関わっているのに、それを友情と勘違いしているなんて、おめでたい人だ」というようなことを言ったらしい。なんだかなあ。私はそれを知って、腹を立てるというより、その人が気の毒になったものだ。だって、そんなことを言うということは、そんな関わりしか知らないということだもの。
たしかに、私は友人たちの心の中まで見通せるわけではない。私が友人だと思っている人の中には、仕事として私と付き合ってくれている人もいるのかもしれない。でも、そうだとしても私はべつにかまわない。重要なのは、私が彼らをまごうことなき友人だと感じている、ということだと思うから。そう感じられることが私は嬉しくて幸福だ。
素敵な考え方というか生き方ですよね。。
人の言うことなすことを重箱の隅をつつくように、嬉々として貶したり嘲笑したりする人たちがいます。数に頼み、匿名にかこつけて、正論の御旗を振りかざし。
そんなことに時間やエネルギーを費やすのが、本当に楽しいのでしょうか…? なんだかいろいろもったいない気がして。
憂さや鬱憤が晴れるようで、その実、心の奥底にはどろどろした澱が溜まっていくのではないかな。。
そんなことをふと思ったエッセイでした。
12月14日付け朝日新聞 be(Red)の連載エッセイ 作家の口福。今回は山口恵以子さん、タイトルは「女の花園」デパ地下に燃ゆ。
燃えるのか。。何にかというとデパ地下に。
そうかもしれない。大抵の女性は好きだと思うし。
>「日本で単価面積あたり最も女性の比率が高いのがデパ地下、男性の比率が高いのがアキバ」と、以前フランス文学者の鹿島茂さんがおっしゃっていた。
あらゆる種類の料理とお菓子、美しいディスプレイ、そしてお高い(笑
そこに引き寄せられて身分不相応な買い物をした後に、ふと我にかえり散財したことにため息をつき。そして、いつか宝くじに当たったら、値段を気にせずに好きなだけ買い物をしよう!と誓うのです。
わかるなぁ~こういうの。ブランド物をどっさりとかではなく、値段を気にせず食品(消えもの)に散財できるなんて庶民の憧れだもの。
一度でいいからやってみたい。値段とか支払いを気にせずに、カートに欲しいものをポンポン!と入れるのを。
まぁ、できませんけどね、貧乏性だから(苦笑
今年の春に松本清張賞を受賞して、賞金500万円を手にされて散財を決意。アブク銭だから。
帝国ホテルにお世話になった方々をご招待され、何度も大宴会! 1回で50万近い代金を支払ったとか。
ものすご~く気持ちがよろしかったそうですが、この楽しみにはリアルな実感がなかったそう。
その後、疲れて帰宅の途にデパ地下で夕食の惣菜を買われて思ったのは。。
>すると急に、うれしくて涙が出そうになった。お金のありがたみがしみじみと胸に沁みた。
同時に「分相応」という言葉をかみしめたのでした。
金額じゃないってことなんでしょうね。お金を使うということの幸せとは。
うん、しみじみ。
FANCL ESPOIR12月号に掲載されていたエッセイ。“言葉でつなげるリレー連載 みずみずしい日々”第8回はよしもとばななさんの「私だけの人生」でした。
洋服と自分の好み、生き方についてのエッセイです。デジタルカタログはこちら →
>作家になってすぐ「これからの人生、普通のスーツを着ることはまずないんだ」と思った。
(中略)
私がもしキャリアウーマン志向で、‥
専業主婦だったら、‥
とにかくモードや流行が好きだったら、‥
どこかにギャルを取り入れたかったら、‥
そういうことは、他のだれにも決めてもらえない。
自分だけの仕事や趣味や志向をしぼりこんでいくことでしか、それは見つけられない。意外に自分のルックスやスタイルも関係ない。内面の好みがその人の外見を決めていくのだ。
(中略)
知人の七十代女性に、いつもはつらつとしたスポーツウェアを着ている人がいる。
(中略)
そうなんだ、なにかを選ぶということは、他のことを捨てるということ。
そこまで潔くなくても、違うものを選ばないという気持ちを見習いたいなと思った。
自分だけの人生なのだから。
なんかいいなぁ。。
かっこいい。人に左右されない、自分でいられる芯の強さが素敵だな。
こうありたいものだとしみじみ。
少し古いのだけど、オレンジページ5/2号に掲載されていた、角田光代さんの連載エッセー「月夜の散歩」。ささやかでかけがえのない日常のお話。
この号の回は、「愛された証拠」というタイトルで男性の食事の仕方にまつわるあれやこれや。
以下、抜粋です。
>ずっと昔から不思議に思っていることがある。
ものを食べるとき、口をしっかりしめないせいで、くちゃくちゃと音をさせる人がいる。たいてい、というか、私の知るかぎりぜんぶ男の人だ。どの世代にもいる。
この「くちゃくちゃと音をさせて食べる」という行為を、好ましいと思っている人は、まずいない。女性の場合、毛嫌いしている人が多い。
私の謎は、ここである。
謎とはいっても、答えはかんたんである。ひとつしかない。それは「だれも注意しないから」。本人は気づかないのである。
そしてここでまた、謎。どうしてだれも、男には注意しないのだ?
くちゃくちゃとものを咀嚼する女性がほとんどいない、あるいはまったくいないのは、成長期のどこかでだれかに注意されたからだ。
でも、男性には許されている。不思議である。まず、母親が許すのだろう。かわいいし、男だからいいと思うのかもしれない。さらに、成長して、友だちが許す。男友だちはそういうことを気にしないのだろう。そして、彼女が許す。好きだから許しちゃうのだろう。その後、妻が許す。交際時に好きだから許し、その後注意しづらくなったのだろう。同僚も部下も許す。そんなことは仕事に関係ないのだろう。かくして、男の人はどれほど年老いてもくちゃくちゃ食べている。しあわせなことだと思う。その人にとっては。愛され、許されてきた証拠なのだから。
納得、至極。そうなんだよねぇ。。
男の人って、あんまりお行儀とか注意されないで育ち、そのまま大人になって、さらに誰も注意しないからいくつになってもそのままなお方が多いし。
もちろん人にもよるけれど。一般論としてそうだと思う。
ご本人たちは、きっとお気づきではないのだろうな。。そうやって愛されて許されてきたことに(笑
余談。
くすっと笑えて、しみじみとうなずけるこの連載エッセーが好きで、『よなかの散歩』、『まひるの散歩』を2冊購入してしまいました。
これから読むのが楽しみです~^^♪