自分が癒されたとき、教会の中で「証し」として語ったことはあります。
ブログで(限られた言葉で)発表しないのは、
何よりも、信仰に対する間違った誘導になるのを恐れるからです。
「そんなに効き目があるのなら、祈り方を教えてもらおう」と
思う方がいらっしゃるかもしれません。
「この病気が治るなら、信じてもいい」と考える方がいても、不思議ではありません。
でも、私は、どんな病気でもいやされるなどと、請け合うことはできません。
キリスト教は、ご利益信仰ではありませんから、
ご利益があると思われるような誤解は、避けなければなりません。
これは、病気だけでなく、人生のすべての問題について、言えることなのです。
受験も、就職も、結婚も、出産も、子育ても、努力をし、最善を祈り求める必要はあり、
神様は、心から神様を信じて祈り求める者の願いを聞いていて下さると「信じる」のです。
しかし、神様は、祈り求めることすべてを、実現して下さるわけではないというのが、
私たちの信仰の良識です。
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教会では、受験用、就職用、結婚用、安産用、病気平癒などのお札を売るようなこともありません。
教会は、おおむね会計が苦しいのですから、
さとうのようなおばさんは、
なにか「商売」をすれば、楽になるかと思うときもあります。
しかし、とくに、プロテスタントの教会では、小さな「土産物」や「記念品」でさえ、
商売にしていないと思います。
その一番大きな理由は、神様からの救い、
神様の祝福やめぐみは「ただ」だからです。
また、私たちキリスト者は、聖書の神――万物の創造主で、
すべての所有者であられる方を崇めているからです。
すべての創造主で、すべてを統べておられて、すべてを所有しておられる方は、
供え物やお金を必要とされるはずもありません。
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私たちが、伝道するのは、
私が、このようなブログででも、聖書やキリスト教を宣べ伝えたいと思うのは、
個々のご利益などを超えた「神のめぐみ」を、ひとりでも多くの方と分かちたいと思うからです。
おいしい食べ物や、素晴らしい花々や、絶景の場所に行った体験を人に聞いてもらいたい
というのと、同じです。
今月は、クリスマスです。
クリスマスは、ある意味で、聖書の物語のフィナーレです。
創世記で神がお約束になった「救い」が訪れる話ですから。
クリスマスの夜を、教会で過ごしていただけたらうれしいですね。