以前にも書いたのですが、
若いころ、ある実業家の方が、
モノの値段について、とても分かりやすく教えて下さったのです。
その方は、ある同人誌を主宰している女性のご主人でした。
まだ少年のころに、裸一貫で田舎から出てきて、
いわゆる「丁稚奉公」から始め、
知り合った頃は大阪で、アパレルメーカーを経営していました。
私が関心がなかったので、その会社の名や、規模はよくわかりませんが、
奥様にかなり自由にお金を使わせていたし、
住まいのある街でも高額納税者だということですから、成功していたのでしょう。
生意気な小娘であった私は、たまたまお宅で、ご主人に会ったとき、
お茶をいただきながら、お尋ねしたものです。
「セーター一枚の原価はいくらくらいですか」
ご主人は、間髪を入れずに答えました。
「ただです」
「ただですって! でも、糸を仕入れなければならないでしょう」
「糸も、ただなんです」
「でも、羊の毛を買うんでしょう」
「羊の毛もただです」
「だって、ひつじの餌も水も要りますよ」
「タダなんです。」
「織機とか工場を立てるお金とか倉庫とか、敷地も買わなければいけないし」
いっぱしの知ったかぶりをしていることにも気づかず、私は、
議論を挑んでいるつもりだったようです。
「みーんな最初は、ただなんです。」
ご主人は楽しそうに答えました。
「いいですか。羊も羊の餌も最初はただなんです。草も雨も日光も土地もただです。
工場の機械の鉄も、織機の材料もただです。
ただ、その一つ一つに、人手間(ひとてま)がかかって、
それが値段になっていくんです。」
目からウロコとはこのことでした。
そういえば、関西では商人のもうけを
「口銭(こうせん)」と言いました。
子供の頃、商売とは無縁のサラリーマン家庭で育った私には、
この言葉は、口先三寸で物を売るようなひびきがあって、感じが悪かったのですが、
今、考えれば、これは「営業のこと」ですね。
営業とは、「人が作った価値」を、お客様に知らせて物を売ることでしょうし、
どんなに良いものを作っても、それを知らせなければ必要な人に渡らないのですから、
「営業」は大切な仕事で、「口銭」は、少しも悪い言葉ではなかったんだ!
◎ ● 〇 ● ♪♬
聖書を読むと、この世界のすべての物は神様がお造りになったのであり、それを、すべて
神様は、ただで、私たちに与えて下さったのだということがわかります。
いっぽう、聖書では、勤勉で堅実な労働が勧められ、怠慢が戒められています。
神さまは、私たちに、タダで与えられたものに、手間をかけて、「価値」を生み出しなさいと
勧められておられるのですね。
手間――労働が利益であり、賃金なら、
よく働く人が、「豊かになり」、その逆は「貧しさ」というのも、しぜんですね。
品物の値段を判断するとき、
それに「どれだけの労力」がかかっているかを見るのも、大切なのでしょうと、
改めて気がつくのです。
労力にはもちろん、手間の質――熟練や歴史まで考慮に入れなければいけないでしょう。
いっぽうで、ただ単純労働をもくもくと続けた人の価値にも 気がつきました。
きのうも、振り返ったように、極端にものを「買いたたく」ことは、
けっきょく、人の労働を買いたたいていることなのですね。
労働しなければ生きていけないのは人間の宿命でしょうが、同時に神のご命令で、
神のみこころに叶うことであるはずです。
値段が下がって暮らしが楽になるのは事実ですが、
「買いたたく」のが当たり前になったら、いずれ、自分も買いたたかれるのだと考えられないでしょうか。
廃棄処分の食品を知らない間に食べていたなんてことは、
「買いたたき」の裏返しかも知れないと思うのです。
もとよりクリスチャンではなく、
(奥様によれば)学があるとも言えない一人の商人が、
とても大事な真理を知っておられたことに、いまでも、感心するのです。