ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

「教会はお風呂屋さん」

2016年02月27日 | 聖書

      ある集まりに出席した時、会合の後に喫茶店でお茶を飲むことになったのです
      十人ほどの女性たちは、
      そこで初めて会った人もいて、親しさと警戒相半ばする雰囲気です。
      多分、雑談の中で、私が自分のことを「クリスチャン」だと話したのでしょう。
      その会合は、「栄養とサプリ」に関するレクチャーでした。もっとはっきりいえば、
      栄養食品を宣伝するための会合でした。
      そのような場所で、「クリスチャン」だと自己紹介したことは、
      違和感があったのかもしれません。
      ある女性が言うのです。
     「クリスチャンといってもねえ。あの人がクリスチャンなの?みたいな人がいるわ」
      私はすかさず、言いました。
      「教会はお風呂屋さんなのよ。汚れた人が来て、きれいになって帰っていくところ。
      一週間経ったら、また汚れるので教会へ行って汚れを洗うの。きれいな人が行くのではなくて、
      汚れた人が行く所なの。私も汚れてるからね。教会に行っているんです」
      「汚れを自覚している」と言いたいのを、ぐっと飲み込みました。

      私が汚れていると聞いて、言い出しっぺの女性の顔が、ぱっと明るくなりました。きっと、
      「それならわかる!]と、思ってくださったのですね。
                                   
      「教会は風呂屋さん」とは、ある牧師が教えて下さったたとえです。
      聖書が生まれた中東には、日本のような「お風呂屋さん」はなかったでしょうから、
      聖書には、出ていません。

      過日、このたとえを教えて下さった牧師に、「あれはとても良いたとえですね」
      と申し上げたところ、先生の答えは、
      「あれは、私が若いころ、どこかの牧師が話しておられたのです」。

             ◎  ●   ♪♬

      キリストは、宣言しています。
     「わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです。」
                               (マルコの福音書2章17節)

      また、この直前に、同じ個所でこうも言っています。
      「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」
      これはもちろん、病人と丈夫な人、正しい人と罪びとがいるという意味ではなくて、
      すべての人は、何らの病気があり、完全に正しいことなどあり得ないのに、
      気づいていないという前提の話です。
      お風呂屋さんに行くのは、「汚れた人」ですが、
      体の汚れに気がつかない人はいませんね。
      「いや、自分は銭湯には行かない。家の風呂に入っているから。」
       あるいは、
      「温泉、サウナ、自然の河川が趣味」と言われる方もいると思います。
       要点は、ただ、自分の汚れに気づいていて、汚れを洗いたいと思う「事実」ですね。

       なんといっても、私たち人間は
      「神の姿にかたどられて造られた」のですから。(創世記1章26節27節)