二年前に、四回連続で、投稿した記事の再録です。
(1)
重度障害者のお世話をしていたころです。
ある時、保育士志望という若い男性がアルバイトで入ってきました。
どこかで資格を取っていて、養護職員になる抱負をもっているようでした。
その男性は、重度知的障害の男の子の担当になりました。
小学生だけれど、排泄がわからない、言葉もない、歩行も思うに任せない子どもです。
紙パンツをつけていて、排泄があったとわかるときにトイレに連れて行って
パンツを取り替えてあげるのです。
担当の子をトイレに連れて行って戻ってきたとき、彼の顔は真っ青でした。
気分が悪いので、少し休みたいと、担当を女性職員と代わりました。
パンツの中いっぱいの排せつ物を見て、気分が悪くなったのです。
一時間ほどして休憩室から出てきた彼は、怒りに震えて言いました。
「あんなに重度の子は、もっと別の施設に入れるべきですよ」
彼は、一時間も残して早退し、翌日から、来ませんでした。
「もっと別の施設」・・・できれば、自分がかかわらなくてよいところへ、やってほしいと平気でいう
そのエゴイズムに、彼は、全然気がついていないのです。
その後、彼がどのような施設で仕事をしているのか知りません。
重度の障害者のお世話は、生半可な覚悟ではできないのだと知ってくれたでしょうか。
替わる必要があるなら、介護者が仕事場を替わるしかないのです。
重度の障害者は、自分を変えることはできないのです。ほかの人と替わることもできません。
★★
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。その両親ですか。」 (ヨハネの福音書9章1~2節)
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現われるためです。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。
だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
(同3~5節)
ある人が障害を持って生まれるのは、彼の親の責任でもなければ本人の責任でもないと、
キリストは断言しています。
それは、健常者として生まれたのもまた、親や本人が誇るべきことではないのを意味しています。
そのことに気がつくとき、私たちの慈善や善い業が生きてくるのではないでしょうか。
汚物を人に取り換えてもらわなければならない障害を持って生れた人は、
どこか遠くの星の人ではありません。
「もっとほかの施設へやれ」と思う心と、
「安楽死させろ」といってはばからない心は、まさに隣り合わせです。
(2)
重複障害者という言葉を初めて耳にする方も多いと思います。
重度の障害を持っている人の多くが、障害を二つ以上もっているのです。
体が不自由なのに、心臓にも病気があるとか、てんかんがある。
脳のどこかに障害がある。目や耳も不自由。
私たちは、ちょっと風邪をひいて熱があっても、ほかの人と対等には行動できません。
指一本傷ついても数時間から、何日も気分が悪くなることがあります。
体が思うように動かず、目が不自由で、耳も不自由で、慢性的な病気をかかえていたら、
ほとんど自立して生活することは困難です。
生まれたときから、薬を飲まないでは生命を維持できず、
大きな手術で体を作り直さなければいけないとしたら、
あらゆる面で、健常者と差がでてきてしまいます。
まして、すべての司令塔である脳に障害をもっていると、環境に適応すること自体難しいのです。
様々な障害がなぜ起こるのかは、ほんとうにはわかっていないでしょう。
仮に、その原因を特定できるようになっても、それがなぜ、Aの身の上に起き、なぜ、Bではなかったのか、
答えることができるでしょうか。
「本人が悪いのですか。それとも両親が悪いのですか」
(新約聖書・ヨハネの福音書9章2節)と問うことは簡単ですが、
そんな問いをする「私」や「あなた」が、
重い障害者として生まれなかったという理由はないのです。
★
私たちが障害者を援助をしなければならない理由は、
障害を持って生まれる可能性は、だれにもあったからでしょう。
私たちが生きている世は、神の恵みが、ある意味遮断されている「罪の世」ですから、
すばらしいめぐみに満ち溢れていると同時に、望ましくない物も存在するのです。
旧約聖書に登場する「東の国の長者ヨブ」は、ある日突然、
全財産と10人の子どもを同時に失うという不幸に見舞われました。
信仰の優等生であり、いかなるときも神に従う姿勢を貫こうとするヨブは、
「主は与え、主は取られる。主のみ名はほむべきかな。」(旧約聖書・ヨブ記1章21節)と言いました。
さらに、彼自身が悪性の腫物に打たれて、見るも無残な状態になり、
それでも、神に愚痴をこぼさないヨブを、彼の妻はあざけりました。しかし、
ヨブは言ったのです。
「私たちは神から幸いを受けるのだから、わざわいをも受けなければならないのではないか。」(同2章10節)
★
「あいつら頭が悪い」と言えるような人は、その口を、誰からもらったのかを忘れています。
自由に話すことができない人は、自分であったかもしれないという想像力に欠けています。
障害者のために「たいへんな税金が使われている」と計算できるのに、
自分が生きているコスト。生まれたときから26歳までのコストがどれほどになるのか、
計算ができないのです。
生まれ落ちた一人の赤ん坊を養うためにお金を使うのは、親だけではありません。
保育園も幼稚園も小学校も中学校も、公立の学校だけでなく私立の学校も、
たいへんなコストをかけて、ひとりの子どもを大人にするために、養育するのです。
コストは大人になってもかかっています。
会社も事業所も、地域社会も、
それ以上に、この世界のお造りになった神様が、
ひとりひとりの人のために、莫大なコストを払っているのです。
私が、やっと成人した頃、親世代が言うのを聞きました。
「まったく、ひとりで大きくなったと思っているのだから」
大人になっても、人はひとりでは生きてけません。
自分で働き、給料を取り、自分や家族の必要を賄えるとしても、
決して全部を、自分で賄えていないのです。
かくいう私も、このようなことに、もう少し早く気付いていたらよかったのにと、
ほぞを噛むのです。
(3)
殺傷事件を起こした犯人を弁護するつもりはありませんが、
介護のしくみについては、たしかに、残酷な現実があるような気がします。
それは、介護のスキルも知識も経験も十分でないものが、
一番熟練の必要な介護の場面の、最前線に置かれているということです。
たとえば、排せつの世話、例えば、食事の世話、
うまく自己主張できない人が暴れたりわめいたりするのをなだめること。
どんなに冷静でも、愛があっても、体力があっても、これらの場面を上手に処理するためには、
相当の熟練と、人間的成熟が必要だと思います。
だれでも、はじめは、動てんし、途方に暮れるような場面がたくさんあるのです。
そのような熟練の人が対処すべき場面に
何故か、福祉の現場では、
いわば、アルバイト、臨時職員のような人が当てられるのです。
★
いったい、医師が看護師より楽な仕事をしている医療現場などあるでしょうか。
仕事の量の問題ではありません。責任の重さです。
医師は看護師よりはるかに長く学び、多くの訓練を経て、患者の治療の最終的な責任を負って
治療をしています。
難しい手術現場で、沢山の医師がかかわる手術でさえ、
一番急所でメスを振るうのは、スペシャリストの医師です。
シェフが、見習いコックより責任のない仕事をしているでしょうか。最後の味つけをし、盛り付けをし、
もし、客からクレームが来たらその責任を持つのは、シェフでしょう。
同じようにろくろを回していても、高価な器をつくることができるのは熟練の陶工です。
★
福祉の現場では、「上の人」は、ただの管理者だったり、
事務処理者だったりすることが多いのです。
汚物に触れることも、噛みつかれることもなく、
暴れたという報告だけ聞き、記録し、
さも、自分たちの働きのように、どこかさらに「上の機関」に報告します。
あるいは、握りつぶします。
一番重度の障害者には、一番ベテランの介護者がつくべきでしょう。
一番ベテランの介護者は、なんらの等級づけをして、
したがって報酬も高く、栄誉も与えられなければならないでしょう。
そのような熟練者へのチェックシステムと報酬制度がなく、安い賃金で、
使う側の都合だけの待遇で雇った臨時職員とかパートと言われる人に、
一番過酷な仕事をおしつけていたら、
介護者は育たず、少なくとも、生涯の仕事になるはずもなく、
それでは、福祉を受ける障害者のためにも、
障害者も幸せに暮らしてほしいと願う国民の期待にも
答えられないと思います。
たんに、介護要員の時給を上げるかどうかの問題ではないと思います。
生涯、介護を仕事にできるような待遇はもちろんですが、彼らのうちに日々、
蓄えられていくスキルを評価し、ほかの人にそれを伝えるシステムを整え、
プライドと連帯感を持てる仕事にすることが必要だと思います。
被介護者を見下したり、虐待したりする人が出てくるその理由の一端に、
少なくとも、
努力と労力に見合う「尊敬」がはらわれていないことが、挙げられるのではないでしょうか。
(4)
そういえば、昨今、ほとんど聞かれない言葉に、「ひきょう」があります。
「ずるい」は、生きているようですが、「ひきょう者」って言いませんよね。
やまゆり園で大量殺人を行った男に対して、一番ピッタリな言葉、
それが、ひきょう者だと思います。
彼が逮捕されたとき、悪びれる様子もなく薄笑いを浮かべていたことを
「不敵な笑い」と形容する向きもありましたが、それは買いかぶりすぎというものです。
一番弱い、一番傷つけやすい者を傷つけるなんて、「ひきょう」そのものです。
行きずり殺人などを見ていても、切り付けやすい女子供を狙っている。
いかにも強そうな「おにいさん」なら、腰をかがめて避けて通るのに、
ちゃんと相手の強さや大きさを測れる。
そのような者に心神喪失なんてあてはまらない!
と思うのは、私だけでしょうか。
★
「ひきょう者は弱虫だ!」
そんな言葉が、広がればと思います。
たとえ、全身に入れ墨があっても、
銃や刃物で武装していても、
おおぜいで群がっていても、
「ひきょう者は弱虫だ!」
しかし、逆は真ならずです。
「弱虫は、ひきょう者」では、ありません。
パウロも言っています。
「私は、弱い時にこそ、私は強いのです!」(新約聖書・Ⅱコリントへの手紙12章10節)
これはもちろん、弱さをみとめて神の前にひざまずくとき、神が味方になって下さるからです。
「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、
むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(同9節)