ノアの小窓から

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サムソン――救国の英雄

2021年05月26日 | 聖書

 サムソンは聖書中もっとも人気のある人物の一人です。型破りで豪放なキャラで俗受けするのですが、実際は悲惨な物語を生きました。国が外国(ペリシテ人)に抑圧され、迷走している時代でしたから、神様は彼を生まれる前からサムソンを聖別され、用いられました。

 

 Coffee Breakヨシュア記・士師記128 救国の英雄(士師記15章7節~20節)


 自分の妻がほかの男の妻になっていたことに腹を立てたサムソンは、ジャッカルを使ってペリシテ人の土地の刈り取りを終え束ねておいた麦、まだ刈り取る前の麦畑、それにオリーブ畑に至るまでを、燃やしてしまいました。そのうえ、妻とその父の家に火をつけて殺したペリシテ人たちを「激しく打ち」復讐しました。さながら、竜巻の襲来のような乱暴な足跡を残していくサムソンに、ペリシテ人も激怒しました。手に手に武器を持って攻め上ってきたのです。
 驚いたのはユダの人々です。彼らの支配者であるペリシテ人と戦うことなど、最初からあきらめているので、彼らはペリシテ人に訊ねます。
 
「なぜ、あなたがたは、私たちを攻めに上って来たのか。」彼らは言った。「われわれはサムソンを縛って、彼がわれわれにしたように、彼にもしてやるために上ってきたのだ。」(士師記15章10節)

 ユダの人々は、騒ぎの張本人であるサムソンを捕えてペリシテ人に渡すことにしました。三千人もの人数で、サムソンが隠れているエタムの岩の裂け目にやってきます。
 
 彼らはサムソンに言った。「私たちはあなたを縛って、ペリシテ人の手に渡すために下ってきたのだ。」サムソンは彼らに言った。「あなたがたは私に撃ちかからないと誓いなさい。」(12節)
 すると、彼らはサムソンに言った。「決してしない。ただあなたをしっかり縛って、彼らの手に渡すだけだ。私たちは決してあなたを殺さない。」こうして、彼らは二本の新しい綱で彼を縛り、その岩から彼を引き上げた。(13節)

 サムソンは自ら進んで捕えられたのです。暴力沙汰になると、剛腕の自分が同胞を傷つけてしまうことを懸念したのです。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 
★★★★★

 捕えられたサムソンを見たペリシテ人は、叫び声をあげて彼に近づいてきました。なぶり殺しにしてやろうと言うわけでしょう。新しい綱二本でぐるぐる巻きにされているのですから、サムソンも絶体絶命です。

 その時、主の霊が激しく彼に下り、彼の腕にかかっていた綱は火のついた亜麻糸のようになって、そのなわめが手から溶け落ちた。(14節)のです。
 サムソンは、生新しいろばのあご骨を見つけ、手を差し伸べて、それを取り、それで千人を打ち殺した。(15節)

 アニメや歴史物の映画などでは、腕力のあるヒーローが一人で千人を倒すような荒唐無稽なスペクタル場面が、観客をわくわくさせます。この聖書箇所は、場面状況も視覚的で生々しく、まるでエンタテイメントのシナリオのようです。
 サムソンは、気を良くして歌います。

   「ろばのあご骨で、
   山と積み上げた。
   ろばのあご骨で、千人を打ち殺した。」(16節)

 ろばと山は、ヘブル語で同じオン(ハモール)なので、ここはごろ合わせになっているそうです。(新実用聖書注解) ごろ合わせの歌が出てくるほど、サムソンには余裕があったのです。
 ところが、敵はあとからあとから押し寄せます。サムソンはのどの渇きを覚え、さすがにエネルギーが切れそうになって、主に叫びました。

「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」(18節)
 すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。それゆえ、その名は、エン・ハコレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。(19節)
 こうして、サムソンはペリシテ人の時代に二十年間、イスラエルをさばいた。(20節)

 ろばのあご骨のような「武器」で、千人を倒すとは痛快です。同じような話が士師記3章31節にあります。エフデのあとに士師となったシャムガルが、牛の突き棒でペリシテ人を六百人を打ったと記されています。
 サムソンやシャムガルは、今日でいえば、超一流のフットボール選手、超一流のレスリング選手、最高段位の剣道選手を合わせたような、強力で俊敏な体力体格をもっていたのは間違いなさそうです。しかし、大きな戦いで、手近にあるろばの骨や突き棒を使わなければならなかったところに、当時のイスラエルの弱さが見えます。
 聖書では、イスラエルは神が選んで育成されている「神の民」の国ですから、つい最強のイメージを描きたくなるのですが、じつは、とても弱小国だというのがわかります。
 それから、二十年間イスラエルを治めたサムソンは、救国の英雄でした。



荒れ狂うサムソン――サムソンの強さと弱さ

2021年05月26日 | 聖書

 サムソンは結婚式の場で、客のペリシテ人たちに一つのなぞなぞを出しました。賭けられたのは、亜麻布の晴れ着30枚でした。今では、高級品でも衣服はそれほど高くないですが、当時のサムソンには買えないほどのものでした。サムソンは自分が謎に勝って晴れ着を敵から巻き上げるつもりでいましたが、花嫁に答えをあかしたばかりに、謎を解かれて負けてしまいます。

 サムソンは自分のうかつさに荒れ狂います。

 

Coffee Breakヨシュア記・士師記127 怒りに怒りを(士師記15章1節~8節)


 彼女は祝宴の続いていた七日間、サムソンに泣きすがった。七日目になって、彼女がしきりにせがんだので、サムソンは彼女に明かした。それで、彼女はそのなぞを自分の民の人に明かした。(士師記14章17節)
 町の人々は、日が沈む前にサムソンに言った。
    「蜂蜜より甘いものは何か。
    雄獅子よりも強い者はなにか。」
 すると、サムソンは彼らに言った。
    「もし、私の雌の小牛で耕さなかったなら、
    私のなぞは解けなかったろうに。」   (18節)
 その時、主の霊が激しくサムソンの上に下った。
 彼はアシュケロンに下って行って、そこの住民三十人を打ち殺し、彼らからはぎ取って、なぞを明かした者たちに、その晴れ着をやり、彼は怒りを燃やして、父の家へ帰った。(19節)
 それで、サムソンの妻は、彼に付き添った客のひとりの妻となった。(20節)

 サムソンの物語は、読む者に衝撃を与えずにおかないのではないでしょうか。とくに、「兄弟(隣人のこと)に腹を立ててもいけない」(マタイの福音書5章22節)と言われたイエス様のことばを実践しようと願って、実践できない私たちです。腹を立てたサムソンの怒りの火に、油を注ぐような「主の霊」に戸惑います。
 サムソンはもともとたくましい人だったかもしれませんが、主の霊が「激しく下る」のでなければ、アシュケロンの住民を三十人も殺して、晴れ着を取ってくることなどできなかったのです。

 私たちは、スーパーマンがドアをぐるりと一回転すると、スーパーマンに早変わりして、大活躍するのを拍手喝采で待ち受けます。しかし、私たちがスーパーマンに共感する最も大きな理由は、彼が「正義の味方」だからです。日頃は平凡でむしろ気弱な新聞記者クラーク・ケントが、危機一髪に臨んでスーパーマンになり、悪を懲らしめるのです。
 サムソンが危機に陥ったのは、いわば「自分で蒔いた種」です。自分から吹っかけたなぞ、また、妻の泣き落としにあって、ついに彼女に謎の答えを打ち明け、彼女が人々にそれを告げたのです。殺すと脅迫されていたのですから、彼女の行動には同情の余地があります。

 晴れ着三十着をどこかで調達しなければならなくなったサムソンは、悔しがりました。
 普通の道徳の教科書なら、ここでサムソンは自分を反省し、二度とこのような思い付きの行動を取ってはならない、賞品については謝って免除してもらうか、だれかに泣きついて調達してもらい、一生借金を背負っても仕方がないと思い定め、教訓とするのがせいぜいでしょう。

 ところが、ここで、サムソンに主の霊が下るのです、そして、ペリシテ人の町だとはいえ、直接は何の関係もないアシュケロンの人たちが打ち殺され、晴れ着を奪われるのです。
 それでも、腹の虫がおさまらなかったのでしょう。サムソンは、花嫁の床にも入らないで家に帰ってしまいます。花嫁の父は、仕方がないので、娘を客のひとりにやってしまうのです。いわば、短慮に短慮、怒りに怒りを重ねるこのようなサムソンが、なぜ「神に聖別された人」なのだろうと、だれでも、驚くのではないでしょうか。

 ★★★★

 家に戻ったサムソンは、自分が結婚するほど好きだった女のことを思い出しました。それが、帰ってからどれくらいたっていたのかはわかりません。とにかく、かっかと燃えていた怒りが冷えるまでの時間です。それで、サムソンは花嫁の父の家に行って、「妻と会わせてくれ」と頼むのです。

 
 彼女の父は言った。「私は、あなたが本当にあの娘を嫌ったものと思って、あれをあなたの客のひとりにやりました。あれの妹のほうが、あれよりもきれいではありませんか。どうぞ、あれの代わりに妹をあなたのものとしてください。(15章2節)
 すると、サムソンは彼らに言った。「今度、私がペリシテ人に害を加えても、私には何の罪もない。」(3節)
 それから、サムソンは出て行って、ジャッカルを三百匹捕え、たいまつを取り、尾と尾をつなぎ合わせて、二つの尾の間にそれぞれ一つのたいまつを取り付け、(4節)
 そのたいまつに火をつけ、そのジャッカルをペリシテ人の麦畑の中に放して、たばねて積んである麦から、立ち穂、オリーブ畑に至るまでを燃やした。(5節)

 ここでも、妻の父の言い分に間違ったところはありません。結婚式まで上げた花嫁を放置して花婿が帰ってしまうのは、大変な屈辱を彼らに与えたことだったでしょう。「嫌った」は離婚を意味することばですから、花嫁の父が、その場で別の男に娘をやったとしても当然なのです。
 サムソンには、そんな理屈は通じません。彼は、「自分の妻と会いたい」気持ちを遮断されて、怒りに燃えるのです。

 ジャッカルはイヌ科に属するオオカミに似た動物で、当時の中近東にはたくさんいたのでしょう。体長65~100センチくらいですから、中型犬くらいです。それにしても、肉食獣のジャッカルを三百頭もとらえて、尾と尾を結びたいまつをつけると言うのは、常人の力をもってはできないことです。ここでは、特に書かれていませんが、サムソンが怒りをもって行動する時には、「主の霊」が下っていたと考えられます。
 この時期を聖書は、「小麦の刈入れ時」(15章1節)と書いていますから、五月ごろの穂が実って熟したころです。
 そのようなところに、たいまつをつけてジャッカルを放したのですから、これもまた、大事件です。ペリシテ人も怒ります。

「だれがこういうことをしたのか。」
「あのティムナ人の婿サムソンだ。あれが、彼の妻を取り上げて客のひとりにやったからだ。」それで、ペリシテ人は上って来て、彼女とその父を火で焼いた。(6節)

 正確ないきさつなど当事者以外にはわかるわけもありません。「サムソンに見初められた女」は、同族の人間に焼き殺されるのを免れたものの、結局、ここで同じ目に会うのです。
 それを知ったサムソンは、また怒りに燃えます。

 すると、サムソンは彼らに言った。「あなたがたがこういうことをするなら、私は必ずあなたがたに復讐する。そのあとで、私は手を引こう。」(7節)
 そして、サムソンは彼らを取りひしいで、激しく打った。それから、サムソンは下って行って、エタムの岩の裂け目に住んだ。(8節)

 激しい怒りの後始末を、それ以上の激情でおおうサムソン。しかし、彼にも理があったのです。主がペリシテ人と事を起こす機会を求めておられた(14章4節)からです。いって見れば、神様が仕組まれたストーリーだったのです。
 
 グロテスクなほど豪快な人間の物語は、それゆえ、深く考えさせられるところがあるようです。