実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、
知識を増す者は悲しみを増す。(伝道者の書1章18節)
私個人は、「知恵が多くなれば悩みも多くなり…」と言うほどの知恵や知識とは無縁だと思いますが、小さな知恵や知識の断片でも、「手の中の燠火(おきび)」のように、扱いに困ることがあります。
昨日も、以前同じ仕事場だった三人組で食事をしました。他愛ない生活の話が多い中で、いつもAさんがこだわって持ちだす話があります。それは、原子力発電のことです。原子力発電が危険であり、人類の未来を全世界的に損なうというのが、Aさんの主張です。
Aさんの主張に反対しているわけではありませんが、その主張が展開する地球の未来像などがあまりにSFじみているし、それがどこからの情報なのかもわからないので、残りのふたりはただ、苦笑いするしかありません。
議論を始めるにはみんな準備不足で、場所も時もあまり適切ではないわけです。わずかな手持ちの知識で反論し合ったりすれば、互いに尖り合って気まずくなるだけです。
もともとは、原子力のような先端エネルギーの発見がなく、それを使っての技術が生まれなければ、難しい問題は起きなかったわけです。火薬が発明されて大量殺人兵器が生まれたように、インターネットが生まれて新たな情報戦や様々な人権侵害が起ったように、知識や知恵は、それを追求した人に復讐するような面があるのではないでしょうか。
★★★★★
私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。(伝道者の書2章1節)
笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。(2節)
私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。(3節)
高度な知的社会の日本ですが、私たちはいつも「快楽」から呼びかけられています。
必需品の「衣食住」から、教養娯楽、エンターテイメント、テーマパーク。観光地とその設備。家にいるしかない者にはテレビが娯楽を提供してくれます。
バラエティ番組の多くが、いつもいつも笑っているのに気が付きます。面白くて笑っているというより、笑いで構成された「劇」だと言っても過言ではありません。もちろん、笑いの中には「快楽」をほのめかせています。タレントのスキャンダルや、女性の性が笑いのネタになっています。そのような番組を見る人は、ビールや酒のコマーシャルに触発されて、「飲んでいる」かもしれません。ソロモンが、今私たちのこの光景を見たなら、「3千年昔と、人の本質は何にも変わっていない」と思うことでしょう。
★★★★★
残念ながら、ソロモンの時代は、すべての庶民に、毎夜エンターテイメントを観て馬鹿笑いできるような「快楽」が提供されていたとは思えません。
快楽の大きな条件に、富があります。権力も必要です。
私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、(4節)
庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。
木の茂った森を潤すために池も造った。
私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。(7節)
ソロモンにとって、美しい庭園もおいしい果樹が獲れる菜園も森林浴をする森も池も、自分専用のものでした。彼のグルメ志向を満たすために、牛や羊を飼い、料理をする人たちもみな、彼の奴隷でした。
私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。(8節)
美しい女性たちも必要なら、いくらでも自分のものとすることができました。ソロモンが得た快楽と、今日の私たちの快楽の決定的な差は、ソロモンの快楽はすべて、彼だけのもので、彼のためだけに手作りされたもので、まさに注文製品だったことです。
彼は自分がどんなにぜいたくな快楽のなかにいるか、わかっていたことでしょう。
そのこと自体を、彼自身肯定しているのです。
私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。(9節)
私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。(10節)
※「伝道者の書」は、旧約聖書の17番目に置かれた書物です。聖書の中では「知恵文学」に分類されています。
ソロモンは、古代イスラエル王朝(BC1044年~BC586年)の三代目の王でした。
ミケランジェロの彫刻、投石のポーズで知られる「ダビデ王」の子です。イスラエル王国全盛期を治め、贅沢で洗練された生き方を楽しんだだけでなく、政治、軍事、知識、宮廷生活など、あらゆる面で最高を味わいつくしたと言われています。
彼の生涯は、同じ聖書の「サムエル記」「列王記」に記されています。また、同じ知恵文学の「箴言」「雅歌」の著者だと伝えられています。
ここに掲載したエッセイは、さとうまさこが、SeeSaaブログに、2016年4月19日から約一か月間連載したエッセイの再録です。
知識を増す者は悲しみを増す。(伝道者の書1章18節)
私個人は、「知恵が多くなれば悩みも多くなり…」と言うほどの知恵や知識とは無縁だと思いますが、小さな知恵や知識の断片でも、「手の中の燠火(おきび)」のように、扱いに困ることがあります。
昨日も、以前同じ仕事場だった三人組で食事をしました。他愛ない生活の話が多い中で、いつもAさんがこだわって持ちだす話があります。それは、原子力発電のことです。原子力発電が危険であり、人類の未来を全世界的に損なうというのが、Aさんの主張です。
Aさんの主張に反対しているわけではありませんが、その主張が展開する地球の未来像などがあまりにSFじみているし、それがどこからの情報なのかもわからないので、残りのふたりはただ、苦笑いするしかありません。
議論を始めるにはみんな準備不足で、場所も時もあまり適切ではないわけです。わずかな手持ちの知識で反論し合ったりすれば、互いに尖り合って気まずくなるだけです。
もともとは、原子力のような先端エネルギーの発見がなく、それを使っての技術が生まれなければ、難しい問題は起きなかったわけです。火薬が発明されて大量殺人兵器が生まれたように、インターネットが生まれて新たな情報戦や様々な人権侵害が起ったように、知識や知恵は、それを追求した人に復讐するような面があるのではないでしょうか。
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私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。(伝道者の書2章1節)
笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。(2節)
私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。(3節)
高度な知的社会の日本ですが、私たちはいつも「快楽」から呼びかけられています。
必需品の「衣食住」から、教養娯楽、エンターテイメント、テーマパーク。観光地とその設備。家にいるしかない者にはテレビが娯楽を提供してくれます。
バラエティ番組の多くが、いつもいつも笑っているのに気が付きます。面白くて笑っているというより、笑いで構成された「劇」だと言っても過言ではありません。もちろん、笑いの中には「快楽」をほのめかせています。タレントのスキャンダルや、女性の性が笑いのネタになっています。そのような番組を見る人は、ビールや酒のコマーシャルに触発されて、「飲んでいる」かもしれません。ソロモンが、今私たちのこの光景を見たなら、「3千年昔と、人の本質は何にも変わっていない」と思うことでしょう。
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残念ながら、ソロモンの時代は、すべての庶民に、毎夜エンターテイメントを観て馬鹿笑いできるような「快楽」が提供されていたとは思えません。
快楽の大きな条件に、富があります。権力も必要です。
私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、(4節)
庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。
木の茂った森を潤すために池も造った。
私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。(7節)
ソロモンにとって、美しい庭園もおいしい果樹が獲れる菜園も森林浴をする森も池も、自分専用のものでした。彼のグルメ志向を満たすために、牛や羊を飼い、料理をする人たちもみな、彼の奴隷でした。
私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。(8節)
美しい女性たちも必要なら、いくらでも自分のものとすることができました。ソロモンが得た快楽と、今日の私たちの快楽の決定的な差は、ソロモンの快楽はすべて、彼だけのもので、彼のためだけに手作りされたもので、まさに注文製品だったことです。
彼は自分がどんなにぜいたくな快楽のなかにいるか、わかっていたことでしょう。
そのこと自体を、彼自身肯定しているのです。
私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。(9節)
私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。(10節)
※「伝道者の書」は、旧約聖書の17番目に置かれた書物です。聖書の中では「知恵文学」に分類されています。
ソロモンは、古代イスラエル王朝(BC1044年~BC586年)の三代目の王でした。
ミケランジェロの彫刻、投石のポーズで知られる「ダビデ王」の子です。イスラエル王国全盛期を治め、贅沢で洗練された生き方を楽しんだだけでなく、政治、軍事、知識、宮廷生活など、あらゆる面で最高を味わいつくしたと言われています。
彼の生涯は、同じ聖書の「サムエル記」「列王記」に記されています。また、同じ知恵文学の「箴言」「雅歌」の著者だと伝えられています。
ここに掲載したエッセイは、さとうまさこが、SeeSaaブログに、2016年4月19日から約一か月間連載したエッセイの再録です。