働く者は労苦して何の益を得よう。
私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。(伝道者の書3章9節)
伝道者は、人間の労苦を神のわざの中で見ています。天地万物を順番にお造りになり、「見よ.それは非常に良かった」と言われる壮大で美しい世界の創造に、圧倒されています。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(11節)
じっさい宇宙を見あげて、「美しい!」と思わない人はいるでしょうか。日や月や星が変わらず天上にあり、一定の法則で動いてそれが永遠に続くのを見る時、その刻む時間の壮大さに打たれない人はいないでしょう。天体の動きに連動して、地上では木々が生え、花々が咲き、猛獣から名もない虫に至るまで、命の営みを繰り返します。どこが始めで、どこが終わりであるのか人は、知ることなどできません。神様の行なわれるみわざの中では、人の一生はあまりに短いのです。
私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。(12節)
また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。(13節)
知的で学問的な探究から、人ができるぜいたくや喜びを、極限まで味わい尽くすことができた伝道者(ソロモン)だからこそ、言えることばではないでしょうか。
生まれる前のことも、死後の世界も結局、知ることはできません。もし、生きることを短い一生だけに限れば、たしかに、労苦には、いささかでも楽しみがあって報われるのです。
確かに身体が健康であれば、食べること飲むことは大いに楽しみです。おいしいものを口に含んだときの幸せな気分はだれも否定できないでしょう。神様から離れた罪ある人間は,「顔に汗を流して」「呪われた土地」から食べ物を得なければならなくなりました。(創世記3章17節~19節) けれども、その食べ物はおいしく、人は食べ物を喜ぶのです。おいしい食物と、それを喜ぶ心は、結局神さまからの賜物です。
「それにしても」と、またしても伝道者は、神のみわざと人間の限界を対比するのです。
私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(14節)
今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。(15節)
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さらに私は日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。(16節)
私は心の中で言った。「神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。」(17節)
伝道者は、社会の不正を見ています。同時に、神のみわざは、人のさばきをもさばかれることに、気が付いています。今は不正が行なわれているように見えても、時が来たら、神はそれを「さばかれる」はずなのです。
私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」(18節)
人が不正を行ない、不正をさばく「さばきの場」でさえ不正が行なわれることを、伝道者は「人が神から試みられていること、そのことに、人が気が付くように与えられた機会だ」というのです。じつに、彼は、透徹した目で見ています。
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人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。(19節)
みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。(20節)
人間がちりから造られ、ちりに帰るというのは、創世記に書かれていることです。(創世記2章7節、3章19節)野の獣は土から造られたと記されていますが、(同2章19節)、死んで帰って行くところは同じです。
伝道者は、死後の有様が、人と動物では異なるのを期待していたようにも見えます。
獣とは隔絶して知恵や知識のある人が、獣と同じ末路であることに納得できなかったのでしょう。
だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。(21節)
私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。(22節)
新約聖書(十字架による救いの実現)以後の民である私たちは、明確に、死後、「永遠のいのち」に入ることを信じています。
その意味で、伝道者の虚無は、私たちキリスト者には異質のものである感じがします。
※「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」は、クリスチャンたちの好きな言葉です。不運や試練でさえ、終わってみると「神様のご計画の内にあった」と思えるようなときに、使う人が多いようです。
私たちはわずかな風や雨にも、すぐ打ちしおれる者です。雲間からの、かすかな光でも求めないではいられないのです。だからこそ、雨の後に萌え出る雑草の若芽にも、「神のなさることは・・・」と、神をたたえます。
しかし、ソロモンのことばには、虚無があります。素朴に神の御業(みわざ)を喜ぶには、彼はあまりに多くを手に入れていたからかもしれません。
虚無は、近代文明人の思想だと思われていますが、3000年昔の時代を生きたソロモンに、すでに取り付いていたというのを、興味深く思うのです。