きのう、礼拝に出かける前に、上の犬歯の前よりの歯が一本抜けてしまった。
差し歯だったのだから、とくにショックというのではありませんが、
礼拝の時に、自分が係りをしていることで小さなアナウンスをしなければならず、
人前で、歯が欠けていると見られることに、動顛したのです。
けっこう、見栄っ張り!?
親しい教会の姉妹たちに「大口開けて笑わなければだいじょうぶよ」
とはげまされ、背中を押されて、
なりゆきにまかせましたが。
帰路、買い物に立ち寄ったスーパーで、
棚の瓶入りジャムを、手に取った拍子に落としてしまいました。
瓶は底が大きく割れ、床にジャムが飛び散って、あわてて店員さんを呼び、
こもごも言い訳しながら、「すみません。弁償しますから」
と平身低頭。
店員さんの態度は、びっくりするほどやさしく、
「大丈夫ですよ。お怪我はありませんでしたか」
本当に、二度三度、頭が下がりました。
(ちなみに、お店は、西友・町田店でした。)
★ ◎ ● ★
感謝、感謝だったのですが、
帰宅してから、じわーっと、「事件」の重みが身に染みてきます。
これが、もう少し若い時だったら、
「なんだかヘンな日だった。あいかわらずそそっかしい。反省!」
で、すむのだけれど、ため息交じり。
「ああ、これが、老いか・・・も」
◎ ● ★ ○
今朝目が覚めて、思い直しました。
けっきょく、なんとか人前でアナウンスを済ませ、
抜けた歯は、祝日が終われば歯科で,また元通りに修復してもらえる。
壊したジャムの瓶についても、
無条件で許していただけたのです。
まだ、どことなく、こころがちくちくしているけれど、
「許しとやさしさ」を受け取ることも、大切なことかもしれない。
「許しとやさしさ」を受け取る練習を、
これから、
もっともっと
しなければならないに違いないのだから。
そうでした。
私は土の器であり、やがて土に帰るもろい存在なのですから、
神さまに信頼して、事実を受け入れようと、いつも思っているのに・・・。
天の下では、何事にも定まった時期がある。
すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、
植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。
くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
(旧約聖書・伝道者の書3章1節~4節)