春のひかり 2014年04月12日 | 日記 春の光の下、新しく生まれたいのちが迸っています。 けやきの大木から、名もない雑草まで。 復活の季節・イースターです。 今年のイースターは四月二十日です、 やっと葉の伸びてきたヤナギ カスマグサと言うそうです。 今日まで名前を知りませんでした。 神は仰せられた。「ひかりがあれ」するとひかりがあった。 (旧約聖書・創世記1章3節) #コラム « トルティージャ | トップ | 復活 »
4 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 Unknown (Unknown) 2014-04-15 12:26:23 人の世に熱あれ人の世に光あれ全国の結成大会における、宣言文の一節です。いつの世も、人は光を求め、熱きパトスを求めたのであります。聖書の、一文にも神の言葉として「光あれ」がありますね。忽ち光が・・・とする神の神聖化は古今東西色褪せない真実の力なのかもしれません。まさこさんは、美しい日々をお過ごしですね。 返信する 棘の冠り (さとうまさこ) 2014-04-15 17:22:05 コメント感謝します。 私が育ったころの関西は、まだまだ「差別」が生きていました。と呼ばれる地域はかなり困難な生活状態だったように思います。普通の市民、むしろ教養もあり、豊かに礼儀正しく生活しているような人が、差別を助長していたのも事実でしょう。「●●出身者と結婚してはいけない」などと、何も知らない子供に教えているありさまでしたから。 の運動は知識としては知っていましたが今回改めてネットで、宣言文を読んでみました。勇気ある決起だと感じ入るところがありました。 荊冠を使ったのは、キリスト者がおられて、イエスの刑死の姿に被せた名をつけたのでしょうか。 もっとも、キリストは差別によって辱めを受け殺されたのではなく、差別をするような人間の罪を自ら背負って十字架への道を歩まれたというのが、キリスト教の見解です。復活は、十字架に付けられた「人の罪――差別や苦しみ」がなくなり、神による完全な世界が約束されたということになります。とても大きな希望です。 神はどこか遠くにおられる「神聖な」だけの存在ではなく、私たちをお造りになり、70億のすべての人の心や体、悩みもすべてをご存じですから、神の視線を意識し、(及ばずとも)できる限り、罪を行わないように生きようというのがクリスチャンの願いです。なかなか、できることではありませんが。 ありがとうございました。宣言 http://tamutamu2011.kuronowish.com/suiheisya.htm 返信する 水平社宣言 (荒野人) 2014-04-24 16:23:16 このコメント、名前を入れず申し訳ありませんでした。この宣言の格調の高さは、人としての尊厳に則っているからだと思います。学生時代に触れ、感動したものでした。まさこさんにも感じて頂けてありがとうございました。社会的差別と云う、この差別の根源に迫りたいと念願したものでした。学生時代のパトス。改めて、この年齢に達し、懐かしく、だがしかし改めて燃え上がらせてみたい・・・そんな気分になっています。 返信する 水平社 (さとうまさこ) 2014-04-24 21:02:06 荒野人さまだったのですね。文体がどことなく似た方だと思いましたが。 そうですね。差別や抑圧、社会悪がとても大きく問題になった時代がありましたよね。私も心情的には社会派に共感していましたが、自分は、感覚的な世界で、小さな平和に安住してきました。いろいろなことを経験し、つまづきの中で、自分が自己中心な人間で、いまもあまり変わらないことに気がついています。さて・・・です。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
人の世に光あれ
全国の結成大会における、宣言文の一節です。
いつの世も、人は光を求め、熱きパトスを求めたのであります。
聖書の、一文にも神の言葉として「光あれ」がありますね。
忽ち光が・・・とする神の神聖化は古今東西色褪せない真実の力なのかもしれません。
まさこさんは、美しい日々をお過ごしですね。
私が育ったころの関西は、まだまだ「差別」が生きていました。と呼ばれる地域はかなり困難な生活状態だったように思います。普通の市民、むしろ教養もあり、豊かに礼儀正しく生活しているような人が、差別を助長していたのも事実でしょう。「●●出身者と結婚してはいけない」などと、何も知らない子供に教えているありさまでしたから。
の運動は知識としては知っていましたが今回改めてネットで、宣言文を読んでみました。勇気ある決起だと感じ入るところがありました。
荊冠を使ったのは、キリスト者がおられて、イエスの刑死の姿に被せた名をつけたのでしょうか。
もっとも、キリストは差別によって辱めを受け殺されたのではなく、差別をするような人間の罪を自ら背負って十字架への道を歩まれたというのが、キリスト教の見解です。復活は、十字架に付けられた「人の罪――差別や苦しみ」がなくなり、神による完全な世界が約束されたということになります。とても大きな希望です。
神はどこか遠くにおられる「神聖な」だけの存在ではなく、私たちをお造りになり、70億のすべての人の心や体、悩みもすべてをご存じですから、神の視線を意識し、(及ばずとも)できる限り、罪を行わないように生きようというのがクリスチャンの願いです。なかなか、できることではありませんが。
ありがとうございました。
宣言
http://tamutamu2011.kuronowish.com/suiheisya.htm
この宣言の格調の高さは、人としての尊厳に則っているからだと思います。
学生時代に触れ、感動したものでした。
まさこさんにも感じて頂けてありがとうございました。
社会的差別と云う、この差別の根源に迫りたいと念願したものでした。
学生時代のパトス。
改めて、この年齢に達し、懐かしく、だがしかし改めて燃え上がらせてみたい・・・そんな気分になっています。
そうですね。差別や抑圧、社会悪がとても大きく問題になった時代がありましたよね。私も心情的には社会派に共感していましたが、自分は、感覚的な世界で、小さな平和に安住してきました。いろいろなことを経験し、つまづきの中で、自分が自己中心な人間で、いまもあまり変わらないことに気がついています。さて・・・です。