日本から訪問した私たちのためにフィリピンの人たちが整えて下さった食事
新約聖書の最初に、福音書が置かれています。
マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書の4つが置かれています。福音書(Good News)は、イエス・キリストの公生涯の書物です。
きのうはここから、「たがいに赦しあう」ことについて、西九州教会牧師・佐々木正明師のエッセイを転載させていただきました。
きょうも、もう一つ、掲載させていただきます。 タイトルは「天に宝を積む」です。
小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの天の父は、
喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
持ち物を売って、施しなさい。自分のために、古くならない財布を造り、
朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。
そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることはありません。
あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。
(ルカの福音書12:32-34)
西九州教会牧師 佐々木正明
四つの福音書には同じ物語がくり返し語られています。ところが、よく読んでみると、少しずつ内容や書き方が違います。それぞれの著者が、異なった観点と強調点を持ちながら、記したためです。天に宝を蓄える話も、ルカはマタイとは異なったところを強調しています。(参照:マタイ6:19-21)
1 神を父とした小さな群れ
イエス様は、私たちが誰であるかということから、話をお始めになりました。私たちはまず、小さな群れです。救いを受けたひとりひとりの個人ではなく、群れ、一塊の人々、共同体であることが強調されています。イエス様はひとりひとりが救われて、天国に行ければそれでよいとはお考えになりませんでした。救われた人々を集めて、ひとつの群れとなさったのです。
クリスチャンは一人で生きるべきではなく、群れとして、互いに愛し合い助け合って生きるべきものなのです。その群れ、すなわち教会を作ることが、イエス様の使命だったのです。イエス様の救いの働きはこの教会を通して、伝えられて行くからです。小さな群れでしたが、聖霊が宿り、黄泉の力も打ち勝つことが出来ない群れなのです。(参照:マタイ16:18)
そしてその群れは、神を父としていす。生まれながらに怒りの子、神の敵であった私たちは、ただただ神の一方的な愛と憐れみによって、養子縁組をさせられ、神の子供となったのです。(参照:エペソ2:1-5、ローマ8:14-16)
2 持ち物を売って施しなさい
イエス様は、私たちが何をすべきかをお教えになりました。持ち物を売って施しなさいとは、豊かな者は施しなさいというのでも、余裕があったら施しなさいというのでもなく、貧しい中で、蓄えもなく余分なものを持たない生活であっても、施しなさいということです。共に痛みを負い合いなさいということです。
それが自分のために古くならない財布を持つことであり、天に宝を積み上げることだとおっしゃるのです。またこれは、単に所有物をもって施すというだけに止まらず、小さな者たちのために病院をおとずれ、刑務所を訪ねるというような配慮、時間と労力の施しも含まれます。(参照:マタイ25:32-46)
クリスチャン同士は、兄弟愛によって助け合います。共に同じキリストの救いにあずかり、同じキリストの命に生かされ、永遠の住まいを分け合う者として、互いを大切にします。しかしその助け合いの心は、小さな群れの中だけに止まるものではありません。本当の愛は多くの隔ての壁を打ち破ります。そして具体的な行為を生み出すのです。
3 神の国を与えられるのだから
イエス様はさらに、なぜ施しをするのかということについて教え、私たちの基本的人生観を、確認するように仕向けておられます。私たちには神の国が与えられるのです。これは永遠の命を持つということです。私たちの人生はこの世の70年80年だけで終わるものではなく、永遠に生きるのです。この世だけを豊かに贅沢に生きたとしてもその後の永遠を、貧しく惨めに生きたのでは、実にもったいないことです。私たちは永遠に生きるのですから、永遠に生きる準備をするのです。
貧しいものに施すのは、天に宝を積み上げること、天に貯金をすることなのです。そこにはインフレも、銀行の倒産もありません。この世界で貯めた財産は天に持っていくことは出来ません。しかしこの世界の貧しい者、小さな者に施した分は、天に蓄えられるのです。そして私たちの財産のあるところに、私たちの心もあるのです。わたしたちの、この世の財産、金や物質に捕らえられない生活は、この世に心を置かないことに始まるのです。たとえ、天に宝を積み上げるということが文字通りの事実ではなく、比喩であったとしても、神がすべてを公平に報いてくださるという、事実があるのです。
日本の教会の方々がフィリピンの子どもたちのために寄付して下さった文具