そのとき、ペテロがみもとに来て言った。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか。」
( マタイの福音書18:21~)
西九州教会牧師 佐々木正明
イエス様は「赦しなさい」と教えてくださいました。ただし、ただ赦すのではなく、主にあって赦すのです。それは自分が先に赦されていることを知って、その赦された喜びと感謝を持って、赦すということです。私たちは神様に赦され、永遠の命を頂きました。神は、私たちを赦すために、イエス様を十字架にさえつけてくださいました。ですから私たちも、たとえ自分が損をしても、犠牲を払っても赦すのです。
人間は赦さないでいると、どんどん悪人となって行きます。私たちには神に似せて造られた性質があり、良心があります。赦さないでいると、その性質が痛み、良心が疼くのです。それをごまかすために、私たちは自分が受けた小さな損害を拡大したり、歪曲したり、うそを言ってまで、赦さないことを正当化するのです。そのようにしていると、そのうそさえ真実と思えてくるのです。
韓国の人たちを見ていると、まさに、日本を赦せないだけでなく、赦さないと決心して、自分の国や国民が受けた被害をことさら大きく言い、事実を捻じ曲げ、うそを言い続けるだけではなく、それを信じているとしか思えなくなります。それが、国家というレベルで積極的に行われているために、多くの韓国人が日本人を愛することは難しくなっています。それでも韓国のクリスチャンたちは、イエス様の教えに従って、何とか日本を赦し、日本のために祈り、日本人を愛そうとしています。しかし、国家が率先して日本に対する憎しみを増幅させようとして、間違った情報を流して事実を捻じ曲げてきたために、韓国人クリスチャンの日本人に対する思いは複雑です。あるクリスチャン・グループが「日本人を赦さないで来た罪を悔い改めます」と発表したところ、韓国中から大変な反発を食らってしまいました。
韓国と日本は、もっと仲良くやって行けそうなものですが、いつまでも赦そうとしないで、自分たちの被害を拡大して語ったり、事実を歪曲したりしていたのでは、日本人も、自分たちが犯した韓国に対する罪を、素直に認めて謝ることはできません。韓国に対しては、日本は戦後の賠償を行い、さまざまな支援活動をしてきました。それだけではなく、韓国を支配したときの日本は、経済的に破綻していた韓国に対して多大の援助をして、経済を立て直しました。多くのインフラを整備して、近代国家の礎を気づきました。でもそのようなことを知っている韓国人は一握りしかいません。韓国には、日本を赦さないで行かなければならない、内的事情があるのかもしれません。
でも、自分たちの被害を拡大して主張するのは、何も韓国に限ったことではありません。日本人も原爆の被害を言い続けています。被害を受けたのは事実ですが、「何の罪もない何万の人々が死んだ」などと言うのはまったくの誤りで、認識不足です。当時の日本では、「一億総玉砕」というスローガンの下、少年少女たちまで軍事工場で働いていたのです。「何の罪もない」などとは言えないのです。原爆の被害を声高に叫びながら、自分たちの国が韓国を初めとする隣国に犯してきた犯罪については、ほとんど口をつぐんだままです。
自分たちの被害を大げさに言い、自分が与えた損害を過小に評価するのは、歴史上ほとんどの国々がやってきたことです。40数年前、本土復帰運動が激しかった沖縄では、自分たちが大和の被害者だという認識が非常に強かったものです。そのために、何につけても、被害者であると言い募るのが沖縄の人たちの欠点でした。そこで牧師は、「沖縄の人が大人になるためには、自分の受けた被害だけを叫ぶのではなく、自分がどれほど加害者であったかも知らなければならない」と書いて、沖縄の牧師たちの総スカンを食らったものです。 赦さない結果は、赦せない人をいつまでも不幸にし、次々と新たな争いを作り出すことです。
フィリピンという国は、期間こそ短かったものの、韓国と同じように日本の支配を受けた国です。しかし国民性の違いから、フィリピン人は日本から受けた被害をほとんど言いません。年配の人たちも過ぎ去ったことだと言って、日本人を責めません。戦後20年くらいまでは、日本を憎む声もまだ残っていましたが、30年後にはまったく聞かれなくなりました。かえって、日本が統治したことは、フィリピンにとって益となったという声が多く聞かれるほどでした。有名なバターンの死の行進にしても、記念日として大切にされているものの、それで、日本人の悪口を言う人を聴いたことがありません。かえって、そうしなければならなかった、日本軍の苦悩を理解してくれています。日本の戦後賠償についても、韓国人とは異なって、フィリピン人は結構良く知っています。そういうこともあって、フィリピン人と日本は友好関係にあります。その結果、両国は共に益を受けることができるのです。ただ、日本がフィリピンに損害を与えた事実は事実です。せめて、バターの死の行進について知っている日本人が、もう少し多くても良いと思うものです。
日本人は、フィリピンだけではなく、台湾に対してもシンガポールに対しても、あるいはミャンマーに対しても、インドネシアに対しても、謝罪と感謝の気持ちを持たなければなりません。彼らは侵略者であった日本を赦してくださっているのです。その赦されている事実を軽んじて、感謝を忘れてはならないのです。
国家間でも、赦さないでいることは益にはなりませんが、一人の人間としてみると、赦さないのは不幸の始まりです。でも、残念ながら、赦さないのではなく、赦せないことが多いのです。赦せるようになるためにはどうしたらよいのでしょう。
自分が赦されていることを、しっかりと知り、常にその自覚を持ち続けていることです。神はキリストの死という犠牲を払ってまで、私たちを赦し、永遠の命を下さり、ご自分との交わりを回復してくださいました。その事実を常に思い起こし、感謝のうちに生きることです。そのような感謝が私たちのうちに満ち溢れているとき、私たちは赦すことができるのです。韓国のクリスチャンたちの多くは、日本を赦そうとしています。ありがたいことです。願わくは、その上に客観的に物事を見、公平に判断する冷静さをもってほしいと思います。すると、赦すことだけを考えるのではなく、赦されなければならないことも分かってくるのです。そして、すでに赦されていることに驚き、改めて感謝をすることができるのです。そうなると、慰安婦問題でいこじになっている日本人も、素直に謝ることができることでしょう。
日本人は、国家として慰安婦を狩り集めたことはないと、保証を拒否しするだけではなく、慰安婦があったという事実までも認めない方向に向かいつつあります。韓国の人たちにとっては、一般民間人がやったか、国家の機関である軍ががやったかはあまり問題ではありません。いずれにしても日本人がやったのです。国家間の保証はすでに済んでいるかも知れませんが、被害にあった一人ひとりの保証はされず、謝罪もされず、人格も無視されたままなのです。
(佐々木正明牧師のブログ「折々に想う」より)http://orioriniomou.seesaa.net/
カット絵、さとうまさこ