サムエルはエッサイに言った。
「子どもたちはこれで全部ですか。」
エッサイは答えた。
「まだ、末の子が残っています。あれは今、ひつじの番をしています。」
サムエルはエッサイに言った。
「人をやって、その子を連れて来なさい。
その子がここに来るまで、私たちは座につかないから。」
エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。
その子は血色の好い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。
主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」
サムエルは油の角(つの)を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。
主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。
(旧約聖書・Ⅰサムエル記16章11節~13節)
きのうの聖書引用箇所、第一サムエル記16章のつづきです。
ダビデは、エッサイの八番目の息子でした。
年も若かったのでしょう。このとき、十代なかばだと推測されます。
それにしても、サムエルがささげ物をする大切な場面に呼び集められていなかったのです。
男の子が大切に思われたイスラエルの父系社会でも、八人息子の末っ子は、
やはり[軽い」存在だったのでしょうか。
● ◎
エッサイの息子たちは、そろって、美貌でした。
長男のエリアブを見たとき、
サムエルは思わず、「確かに、主の前に油を注がれる者だ」と思ったのです。
主が「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。」と言われたのですから、
エリアブはイケメンだったのです。
エリアブの次のアビナタブも、シャマも、主が止められたようですから、
美しい青年たちだったのでしょう。
わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。
人はうわべを見るが、主(しゅ=神)は心を見る。
これが、神様がエリアブを退けた理由でした。
しかし、最後に現れたダビデが、美しくなかったのではありません。
その子は血色の好い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。
この具体的な描写は、ダビデの姿を生き生きとよみがえらせます。ダビデは、
うわべの美しさだけではなく、
まっすぐ物を見る目――健康でたくましい心をもっていたのです。
◎ ●
ダビデに油注がれた瞬間、ダビデの上に主の霊が激しく下った、のです。
それは、同時に、サウルから、主の霊が取られることを意味していました。
サウルは、夜な夜なわざわいの霊に悩まされるようになります。
ダビデは、王としての自信を失ったサウルと運命的な出会いをします。
ゴリアテとの戦いのあと、国民的スターになっていくダビデを
サウルは、嫉妬に駆られ迫害するようになるのです。
この迫害の中で、ダビデは、まっすぐで、正義感に燃える若者から、
だんだん、王国を束ねる知恵と忍耐と政治力を身につけていくのです。
素材の良さだけでは、人は、「使いもの」にならない?
と、神様は、お考えになったのでしょうか。
ダビデの試練を見ていると、そのように考えざるを得ません。
聖書において、わざわざ美貌が記されている場合、神様から見て意味がある場合だけです。
もちろん、古代イスラエルにも、
ヨセフやサウルやダビデ以外に美貌の男はたくさんいたことでしょう。
でも、神が用いられなかった人は、聖書にその名が記されなかったのでしょう。
美貌と言えば、女性を思い浮かべる方も多いでしょう。
この後は、ダビデの美貌の王子たちについて、
また、美貌の女性にも触れてみたいと思います。