ある集まりに出席した時、会合の後に喫茶店でお茶を飲むことになったのです
十人ほどの女性たちは、
そこで初めて会った人もいて、親しさと警戒相半ばする雰囲気です。
多分、雑談の中で、私が自分のことを「クリスチャン」だと話したのでしょう。
その会合は、「栄養とサプリ」に関するレクチャーでした。もっとはっきりいえば、
栄養食品を宣伝するための会合でした。
そのような場所で、「クリスチャン」だと自己紹介したことは、
違和感があったのかもしれません。
ある女性が言うのです。
「クリスチャンといってもねえ。あの人がクリスチャンなの?みたいな人がいるわ」
私はすかさず、言いました。
「教会はお風呂屋さんなのよ。汚れた人が来て、きれいになって帰っていくところ。
一週間経ったら、また汚れるので教会へ行って汚れを洗うの。きれいな人が行くのではなくて、
汚れた人が行く所なの。私も汚れてるからね。教会に行っているんです」
「汚れを自覚している」と言いたいのを、ぐっと飲み込みました。
私が汚れていると聞いて、言い出しっぺの女性の顔が、ぱっと明るくなりました。きっと、
「それならわかる!]と、思ってくださったのですね。
「教会は風呂屋さん」とは、ある牧師が教えて下さったたとえです。
聖書が生まれた中東には、日本のような「お風呂屋さん」はなかったでしょうから、
聖書には、出ていません。
過日、このたとえを教えて下さった牧師に、「あれはとても良いたとえですね」
と申し上げたところ、先生の答えは、
「あれは、私が若いころ、どこかの牧師が話しておられたのです」。
◎ ● 〇 ♪♬
キリストは、宣言しています。
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです。」
(マルコの福音書2章17節)
また、この直前に、同じ個所でこうも言っています。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」
これはもちろん、病人と丈夫な人、正しい人と罪びとがいるという意味ではなくて、
すべての人は、何らの病気があり、完全に正しいことなどあり得ないのに、
気づいていないという前提の話です。
お風呂屋さんに行くのは、「汚れた人」ですが、
体の汚れに気がつかない人はいませんね。
「いや、自分は銭湯には行かない。家の風呂に入っているから。」
あるいは、
「温泉、サウナ、自然の河川が趣味」と言われる方もいると思います。
要点は、ただ、自分の汚れに気づいていて、汚れを洗いたいと思う「事実」ですね。
なんといっても、私たち人間は
「神の姿にかたどられて造られた」のですから。(創世記1章26節27節)