人は心に自分の道を思い巡らす。
しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主(しゅ=神)である。
(旧約聖書・箴言16章9節)
自分の道を思い巡らせるとき、だれでも、それを確かにするのは「自分だ」と思うのは、ある意味自然です。結婚したければ婚活したり、恋人にプロポーズしたり、また経済的な準備をしたりしなければなりません。進学や就職を成功させるための勉強は自分がしなければなりません。それは自分が「する」のです。けれども、それだけでは不十分です。どんなに努力して完璧な準備をしたと思っても、すべてを采配しておられる方に祈り、より頼みなさいと、箴言の語り手は諭します。
すべてを采配しておられる方は、主(神)です。これは、たぶん、世界や時間を広く生き、経験を重ねるほどわかって来ることなのではないでしょうか。
イスラエル王国全盛期(BC970年即位)の王として、富、名声、恋、知的好奇心追求のすべてで頂点を極めたソロモンでした。それだけに、人間の「限界」と、神が世界を支配しておられることが、よく「見えて」いたのではないでしょうか
※「箴言」は旧約聖書の20番目に置かれた書物です。
ソロモンが書いた(あるいは集めた)ソロモンの箴言と言われています。
ソロモンは、ほかに「伝道者の書」「雅歌」を残しています。
それにしても、聖書はむつかしいです。
特に旧約は。
「思い残しのない人生」に、貴重なご意見をありがとうございます。
ただ自己満足といっても、自己に満足しているわけではないのです。
「自分を褒めてやりたい」なんていう気持ちは、はっきり言って気持ちが悪いです。
むしろ「こんなもんだ」と妥協しているのです。
もちろん、努力はしますが。
何十億と存在する人間のうち、秀でた才能の人はごく一部だと思います。
たとえば、さとうまさこさんは文才という才能があるから作家になれたので、だれもが作家になれません。
特に高齢者の人がその現実を受け入れないで、社会を呪っている人もいるようですが、与えられた杯は潔く飲まなければならないと思います。
その味は苦いけど、飲み干すと人生のしがらみにふっきれるはずだと考えますが、まだ半分しか飲んでいないので、はっきりしたことは言えません。
聖書は外国で生まれた古文書で、さまざまな形式の書物を収めた、類書のない書物なのでちょっとややこしい気がするのです。でも、大きなテーマは単純です。大切なのは、神様が世界と人間を造ったか、偶然にできたと見るかの違いだけです。
いずれにしても、聖書は、聖人列伝でもなく、倫理の教科書でもなく、弱い人間たちのオンパレードです。正しいのは、「神おひとり」と思うと、気が楽になるのです。エラそうなことを申し上げました。ありがとうございます。