ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

ブランチ

2016年08月24日 | 食べ物




        毎朝、聖書通読エッセイCoffee Breakを書いて投稿するために、
        朝食は、そのあとになります。
        まあ、ブランチです。

        起床後4時間くらいたっているので、いくら小食の私でもお腹が空いています。


        今朝は、ピザトースト。
        野菜やハムは多い目で、チーズは少ない目。

             おいしかった!!
                感謝!!



              
                   お皿が合ってない。どっかで調達してこなくちゃ。









        

賛美歌320、主よ、御許に近づかん

2016年08月22日 | 聖書

「賛美歌320番」主よみもとに近づかん



               主よ、みもとに近づかん
               のぼる道は十字架に
               ありともなど悲しむべき
               主よ、みもとに近づかん

               さすらうまに日は暮れ
               石のうえのかりねの
               夢にもなお天を望み
               主よ、みもとに近づかん

               うつし世をばはなれて
               天がける日きたらば
               いよよちかくみもとにゆき
               主のみかおをあおぎみん    「主よみもとに」讃美歌 320番




     この曲は、かつて小学校の音楽の教科書にありました。
      タイトルは「秋」、歌詞は賛美歌とは関係のない叙景歌でした。

      夜風そよぐ 岸辺に 葦がゆらぐ、ゆらゆらと
      小波さわぐ 水のおもに 月も揺らぐ、ゆらゆらと~♪



     イギリスでショートステイしていたとき、プレイルームに、古いオルガンがありました。
     長い夜が退屈で、鍵盤に手を置いてみました。
     大昔に、バイエルくらいしかかじったことのなかった私でも、
     しぜんに、メロディが弾けたのが、この曲でした。同じ曲ばかり、繰り返してひいていました。
     ある夜 ドアが開いて、若いスペイン人の学生が言いました。
     「それ、ぼくの国では葬式のときに弾くんだよ」


     そういえば、映画タイタニックで、船が沈むときにも楽団がこの曲を演奏していました。


     、
 映画「タイタニック」主よ、御許に近づかん--BIWAKOオラトリウム合唱団


            
     
      けれども、曲の本当の意味を知ったのは、クリスチャンになってからです。
      
      ウィキピディアには次のような紹介があります(抜粋)
原曲は元々民謡として以前より存在していたとも言われており、詩は旧約聖書・創世記28章11節・12節を基に19世紀に英国のサラ・アダムス(英語版)によって作詞された。現在知られている旋律は米国のローウェル・メイスンによって書き起こされた「ベサニー」("Bethany")である。ほかにもジョン・バッカス・ダイクスの「ホーベリー」("Horbury") や、サミュエル・セバスチャン・ウェスレーの「コミュニオン」("Communnion") がある。メソジスト教徒はアーサー・サリバン卿によって書かれた旋律 "Propior Deo" を好む。
  


       創世記28章は、アブラハムの孫ヤコブが、父親と兄をだまし、
       兄の怒りを恐れて、家から逃亡し、メソポタミヤに住むおじさんのもとに行く途中、

       荒野でたったひとりで野宿をしているときに、神に出会う話です。

       驚いたことに、神は、ヤコブがアブラハム家を引き継ぐものであると明言して下さり、
       ヤコブが、遠い地に行っても、
       「かならず、この地に連れ戻そう。私は、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決して
       あなたを捨てない」
と仰せになったのです。(創世記28章15節)

       ヤコブは後に、神から、イスラエルという名前をいただき、イスラエル民族の名祖となります。
       したたかで、あくの強い若者だったヤコブは、長年の苦労の末、人間としても造りかえられて、
       カナンにもどってくることになります。 

       イスラエル12部族の先祖になった十二人の息子をしたがえていました。



             










タラゴナ3

2016年08月19日 | 思い出

      

      タラゴナに入る前は、バルセロナに一週間ほど滞在しました。
      あの年のバルセロナは格別の活気があるように見えました。
      次の年にオリンピックが予定されていました。
      郊外の丘の上では、工事のまっさかりでした。
      耀くたき火の陰に置かれた小さなローソクのように、タラゴナはひっそりとしていたのです。

      
                 

           地中海 たけき剣士の 叫び吸い
         青い空 恋する女を 抱きしめる

            
      
      
      円形闘技場は地中海に面しています。

      タラゴナの街の高さと、海岸線までの高低差を利用して造られているようです。

      背景に、海と空しかないなんて、すばらしいロケーションです。
      視界の端から端まで、目いっぱい、闘技場なのです。
      客席がすり鉢状の形を、幾重にも形成しています。

      その底で、いのちがけの戦いがあった・・・。

      剣闘士と剣闘士。
      剣闘士とライオン?

      何万もの観衆が、立ち上がり、こぶしを振り上げて叫んでいる。

      見たわけではありません。映画か何かの場面がオーバーラップしているのでしょう。


      
      私は、金網に張り付いて、見下ろしていました。
      闘技場は、延々と金網に囲われていたのです。


      

              ★ ★   



            
       小さなスケッチブックを持っていたので、スケッチを始めました。
       対象が立派すぎて、途方にくれながら鉛筆を走らせていました。

       建造物を描くのは、私には、難しいのです。
       建造物には、威厳があります。押しつけがましいほどの主張があります。

       ローマ時代の闘技場です。2000年間もそこにあったものです。

       誰かの声が聞こえました。振り返ると年配の男性が首を傾げて、招いています。
       少し行くと錠のかかった箇所があって、戸口になっている金網を空けてくれました。

       
       「入って、描きなさい」というわけです。

        
        闘技場に入るのは有料だったのです。
        係員は、どうやら、私の描いている行為に免じて
        戸を開けてくれたのです。

               
       
              ★ ★★  
        


        けっきょく、スケッチは完成しませんでした。

        眺めている方が、小さなスケッチブックに執心しているよりはるかに良かったのです。

        静かな情景でした。

        海には船があり、白波も立っていたかもしれないのです。
        いくらかの入場料を払って、場内を歩いている観光客もいたかもしれないのです。
        

        しかし、
        いま、私は、土色の闘技場がさん然と海と空に対峙している
        あの日を

        夢のように、思い出すばかりなのです。
        


           
           



タラゴナ2

2016年08月18日 | 思い出


     人によって、幸せを感じる時というのは異なるのでしょうが、
     私は、一人でいる時に、「楽しいこと」が多い気がします。

     人の心には、神によってしか満たされない空間があるといわれています。
     だから、神に祈ることができる動物は、人間だけなのです。
     人間だけが、神に祈り、神様との会話ができる?
     たしかに、そのとおりなのです。

     「神がいると(仮定)して、祈ってみます」という方がいます。
     それは、ほとんど論理的にも破たんしています。
     電車が走っているとして、東京駅まで行ってみますと、ストライキでもないのに言うようなものです。
     電車が走っているから、電車に乗れるのです。
     同様に、神様がいらっしゃるから、祈れるのではないでしょうか。
     
     聖書は、のっけから、書いています。



        はじめに神が天と地を創造した。(創世記1章1節)

      神様は、自分がお造りになった人間をいつも気にかけておられるのです。     


    また、人の心には、他の人の存在によってしか満たされない空間もあるとのことです。
     やはり、聖書は命じています。



        自分を愛するように、隣人(となりびと)を愛しなさい。(マタイの福音書22章39節)
     

     その通りですね。
     神様の命じられるように、他の人を愛することが難しいのですが、
     自分は、他の人から、愛してもらいたいのです。
     はるか遠い国を旅していて楽しいのは、ほんとうの天涯孤独ではなかったからにちがいありません。
     毎日、私の足跡を見守って下さる神様と、
     「気を付けてね」といってくれる家族がいたから。
     友人たちに、絵ハガキを出したり、たまに国際電話をかけるのも、楽しみだったし。

     でも、一人旅は悪くなかったのです。
     今も時々思うのです。  
     バックパックを背負って、知らない街を、のんびり、とぼとぼ歩いてみたい。

     でも、無理かなあ。
     むり、むり。と自分が答えています。
     体力衰えているし、

     タラゴナのように美しく、ひっそりとした観光地は、このネットの時代、もうないかもしれないし。


               


     タラゴナの思い出は、「のんびりとしていて、心から休息した気分」です。

     宿は、一階がバル(バー兼カフェ兼レストラン)で、二階がホテルになっていました。
     3階4階にも部屋ががあったのか、今では記憶にありません。

     やせっぽちのせいでいつもなんとなくお腹を空かせている身では、階下で食事ができるのは助かるのです。
     スペインの人は美男美女が多いうえに、とにかく笑顔がいい。それも率直な笑顔です。

     バルのマスターは、闘牛士でも連想させる身のこなしと、ふしぎな自信がみなぎっている人。
     安ホテルですから、うやうやしくはしてくれませんが、そっけなさそうで親しみやすさがあります。
     

     スペイン語のわからない私が一所懸命英語で話そうとすると、その目はおかしそうに笑っていて、
     けっきょく、「シー」「シー」と、スペイン語で返事を返してきます。

     
     最近紹介されているタラゴナは、観光地としてとても洗練されているようなので、
     日本語だって通じるかもしれませんが、
     当時はとにかく、「地球の歩き方」(ガイドブック)と、自分の足と勘が頼り。


                  ★ ★  



     のんびり、とぼとぼ。のんびり、とぼとぼと、海に向かって歩いていると、
     突然、闘技場が見えたのです。

     あの映画や写真でしか見たことがない、ローマの円形闘技場とそっくりなのが目の前に。

     真っ青な海と真っ青な空をバックに、視界の底いっぱいに広がっていたのです!!