ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

聖書と賭け事――サムソンの物語から

2021年05月25日 | 聖書

 聖書の学び会(注、今はZOOMで行っています)で、サムソンの箇所を担当することになったので、予習と復習を兼ねてかつて書いたブログ記事を読み返しています。これがなかなか面白いのです。元の聖書の記事が面白いからでしょう。荒唐無稽で型破りなサムソンの物語は、何度か映画になったようですが、アニメにも小説にもなりそうです。悲壮、壮絶な内容なのですが、わくわくとさせて魂をゆさぶってきます。連載は10回ほどあるのですが、そのひとつだけを紹介させてください。ちょうど賭け事の話になっていて、かつて、さとうがイギリスに行ったとき、ドッグレースに賭けて負けた話も告白しています。

 

 

Coffee Breakヨシュア記・士師記126 賭け事と聖書(士師記14章11節~17節)

 

 成人したサムソンは、異教徒であるペリシテ人の女に恋をしてしまいます。
息子の恋にまゆをひそめる父に無理を言って結婚にこぎつけます。両親といっしょに、女のいる町に行き、結婚式を挙げるのです。
 サムソンは、その結婚式の最中に、招待した花嫁側(ペリシテ人)の三十人の客に対して、謎なぞを出すのです。

 サムソンは彼らに言った。「さあ、あなたがたに、一つのなぞをかけましょう。もし、あなたがたが七日の祝宴の間に、それを説いて、私に明かすことができれば、あなたがたに亜麻布の着物三十着と、晴れ着三十着を上げましょう。(士師記14章12節)
 もし、それを私に明かすことができなければ、あなたがたが亜麻布の着物三十着と晴れ着三十着とを私に下さい。」すると、彼らは言った。「あなたのなぞをかけて、私たちに聞かせて下さい。」(13節)
 そこで、サムソンは彼らに言った。
   「食らう者から食べ物が出、
   強い者から甘いものが出た。」
 彼らは三日たっても、そのなぞを明かすことができなかった。(14節)
 四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った。「あなたの夫をくどいて、あのなぞを私たちに明かしてください。さもないと、私たちは火であなたとあなたの父の家を焼き払ってしまう。あなたがたは私たちからはぎ取るために招待したのですか。そうではないでしょう。」(15節)

 このような乱暴な説得方法は、今の私たちが聞くとアンフェアだと思います。女がサムソンにねだって答えを聞かなければ、仲間のペリシテ人が、女も女の父もその家も焼いてしまうと言うのです。殺すと言われた女は、サムソンを泣き落としにかかります。

「あなたは私を憎んでばかりいて、私を愛してくださいません。あなたは私の民の人々に、なぞをかけて、それを私に解いてくださいません。」すると、サムソンは彼女に言った。「ご覧。私は父にも母にもそれを明かしていない。あなたに、明かさなければならないのか。」(16章)

 サムソンは、愛する女の泣き落しをも退けました。しかし、結局、負けてしまうのです。

★★★★★

 

 聖書はとくには、賭け事を禁止していない。サムソンは、少々ムリななぞを出したかもしれないけれど、宴会の余興として特別非難されることでもないと思われるでしょうか。

 私自身は賭け事・勝負事は苦手です。うまく勝てないからというより、たんに体質に合わないということです。麻雀の台を囲むのを社交の場としている「品の良い豊かなご婦人」も知っていますし、囲碁・将棋は、たんに勝気や真剣さ、まして射幸心などでは到底できないものだとも思っています。トランプは、やり方によってはとてもスマートなゲームなのでしょうが、いつも負けてしまいます。パチンコやスロットなら、私にもできるでしょうが、単純すぎてすぐに飽きてしまいます。
 宝くじを買ったこともありますが、当たったのは、十枚に一枚当たる仕組みになっている続き番号の一枚だけです。だれかに、「十枚も買うならお寿司でも食べた方がいいよ」と言われて、すぐに、「そうよね」と思うのです。

 そんな私でも、賭け事の魅力に、ほんの一瞬取りつかれたことがあります。今から二十年以上も昔(2012年の時点です)、イギリスでドッグレースを見に行ったときです。せっかくイギリスまで来たのだから、一度は見たいと思っていたところ、英語学校の仲間が数人行くと言うのです。
 犬をどうやって走らせるのかしらと、興味はその程度でしたが、行ってみると、郊外にあるレース場はとてもりっぱで、陸上競技大会でも開けそうなほどでした。夜でしたから、明かりが煌々とグランドやトラック、客席を照らし出しています。客席には、貴賓席もあり、また割増料金を払うと、レストランのような建物の中で、飲み食いしながらトラックが見渡せるようになっているのです。
 お金のない私たちは吹きっさらしの階段状客席で見物したのですが、客席の前には、あちこちに、「予想屋」さん。後ろには、テレビ画面があり、天井からも大きな表示板が吊ってあって、つぎつぎと出走する犬や掛け率の紹介をしています。いたるところに、自販機のような券売機もあり、馬券ならぬ犬券を買うことができるのです。だいたい一枚一ポンド(当時、二百六十円くらい)です。私は、初めの数レースはただ見物していたのですが、せっかく来たのだから、やはり賭けてみないと面白さがわからないかもと思って一枚だけを、機械で買いました。

 と、なんとこの一枚が当たって、一ポンド六十ペンスになりました。嬉しくなって、この一ポンドを賭けました。とりあえず、六十ペンスは儲けているという変な錯覚がありました。しかし、つぎは、もちろん外れました。その時、ふと、もう一回買ったら、当たるかもしれないと思ったのです。それも外れ、次も外れ、けっきょく、十ポンドほど損をしたところでやめたのですが、普通なら絶対ありえない自分の行動は、いまでもふしぎです。

 

 ステイ先の奥さんにその話をすると、犬好きの奥さんは、「犬を走らせることそのものに反対だ」とにべもありません。私も、返す言葉がありませんでした。
 確かに、模型のラビットを追わせて犬を走らせ、そこで人間が血眼になってお金を儲けるのは、あらゆる意味でばかげているかもしれません。

 賭け事は、人をスポイルしてしまうと言うのが、私の小さな損失から得た大きな教訓です。神様がお許しになるはずはない?です、よね。

 

 

 註、今も、ドッグレースが行われているかどうかは、わかりません。動物愛護に熱心なイギリス人には、当時でも賛否両論があったようですから。

 

 


洗礼記念日に思う(2)

2021年05月16日 | 聖書

 

 なぜキリストを受け入れようと思ったのかは、「神様に促されたから」というしかありません。もっと正確には、「神様がいらっしゃる」ことに気が付いたというべきでしょう。大きな壁にぶつかって、何とか突破しようと四苦八苦しているときに、その壁が突然崩壊したような体験をしました。神が、不思議な力で壁を壊してくださったと信じることが出来たのです。

 この瞬間、私は回心したのです。救われたと実感したのです。

 このような出来事は神様が働かれたから起きたことです。ですから、救われるのを、召されるともいいます。

 そして、神様を受け入れようと思ったとたん、自分が生まれ変わったのを「知った」のです。再生というのはそういう意味です。英語でも、rebornと言うようです。

 

🌸🌸

 

 洗礼は、自分が生まれ変わったことの社会的表明です。もともとパレスチナでは水による「悔い改めの洗礼」がありました。バプテスマのヨハネが、キリストが世に来られることを預言しながらヨルダン川でイスラエル人たちに授けていたのは、この洗礼です。悔い改めは、罪を犯してしまった人間が神の前に罪を悔い改める意味がありました。神様との関係回復に、罪の悔い改めは不可欠なものです。

 キリスト・イエスが来られた後の洗礼には、「罪の悔い改めをした人間」に聖霊が働かれて、じっさいの「救い」を得させてくださると、説明されています。

 

 そのようなプロセスは、あらかじめいくら学んでもわかるものではないような気がします。救われてから、何年も経つうちに分ってくるのです。というのも、持続的に聖霊が働いてくださるのを経験するからです。

 それもまた言葉だけでは説明できるものではないと思います。ある牧師はそれを食べたことのない南国のおいしい果物にたとえて説明しています。ある外国人宣教師は日本の温泉にたとえていました。

 救われたという実感は、体験してみないと分からないというのは本当です。その喜びは年ごとに成長しているので、私も16年目の受洗記念日を嬉しく思い起こしたのです。         感謝!! 

 

 


受洗記念日に思う

2021年05月15日 | 聖書

 

 私は人生の晩年になって救われました。2005年5月15日に洗礼を受けたのです。今日で新生て16年になります。これは素晴らしい体験でした。自分の中ではその前年の12月15日に、神様に召されたという明快な自覚がありましたが、洗礼はそれから5か月後の、ペンテコステの日になったのです。

 5月にしては、寒い日でした。プレハブの開拓教会には、洗礼のためにどこからか持ち込まれた粗末なバスタブが、青いビニールシートが敷かれた床に置かれていました。そこに水が張られ、世話をしてくださる女性がやかんで沸かした湯を何度か埋めていました。待ちに待った洗礼、でも、プールでさえあまり好きでない私は、なんだか手術台にでも上がる患者のように固くなっていました。じつは同じ日に3人の女性が受洗するのですが、一番小柄な私が最初と決まっていました。

 自分で用意した白い服に着替え、30人くらいの人たちの前で洗礼の証を読み上げ、牧師の導きのとおり誓約を行いました。儀式をしている間に次第に気持ちが高揚してきました。新しく生まれるというのは実に不思議な気分でした。

 これはもう、後にも先にもない経験なのだと思い、水に足を入れました。予想よりはるかに冷たくてびっくりしましたが、からだを沈めました。牧師の手が一瞬ですが、頭を押さえて水に顔を入れました。その時、いっせいに拍手が起こりました。

 頭からびしょぬれになって立ち上がった時、しかし、もはや寒さや冷たさはなくてまばたきする目の先にきらめく水滴(?)が、花のようにゆれています。「生まれ変わったんだ」という喜びが全身ではじけていました。

★★

 考えてみたら、私はいわゆるこの世に生を受けた日を自分では覚えていないわけです。へその緒があったり、赤ん坊の写真があったりして、自分にも誕生日があったのを知るのですが、この世に生まれたらしいことがわかるのは、それからずいぶん後のことです。

 それに対して、二度目の誕生ははっきりと意識できるのです。それは、単に儀式ではなかったと思います。「洗礼を受けたのだからクリスチャンとしての自覚を持つのだ」と言ったものでもないのです。自分は、昨日の自分なのだけれど、何かが変わった!と気が付くようなものでした。当時は、かなり難しい仕事をしていたのですが、仕事は変わっていないのに困難さが薄らいでいました。

 教会生活は、「恐る恐る」であると同時に、「ワクワク」するもの、「チャレンジング」なものでした。つまずきそうなときもありました。
 じつは、救われてからが新生の本番だったのだと、最近になって噛みしめています。

 たとえば、つぎのような聖書個所が、じつに納得できるのです。パウロのことばです。

 また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだますように見えても、真実であり、(Ⅱコリント人への手紙6章8節)
 人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、(9節)
 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものをもっています。(10節)

 



 明日、この追記を載せさせていただきます。

 よろしくお願いいたします。