足利の里山に行くとき足利市堀込町あたりで「ようこそ八木節のふるさとへ」
の看板に出会う。
ここが例幣使街道の八木宿跡なのだ。
「ほ~~~そうなんだ」程度にしか興味が湧かなかったが、急に調べてみる気になった。
chimoさんがすんでいるのは群馬県太田市。ここに木崎という町がある。
時代劇なんかで時々「上州木崎宿」なんて出てくるがまさにそこだ。
例幣使街道の代表的な宿場町だ。
そこに「木崎音頭」というのがある。この歌詞を見ると納得がいく。
ぐんま 地域文化マップによると
http://www2.gunmabunkazigyodan.or.jp/cgi-bin/item.php?id=234
木崎音頭は、戦前は木崎節と言われ、夏の盆踊りに唄われました。手ぬぐいで頬かぶりし、うちわで顔をかくし、「雨が3年 日照りが4年」と囃子に合わせて唄われ、一節歌うことに一廻りして次の文句を歌う流調な節回しでした。
日光例幣使道通行の際に大勢の若者が宿泊を余儀なくされ、旅籠屋ができ遊興の地となり、越後から多くの子女が奉公という名目で身売りされ飯売女として苛酷な生活をしいられました。彼女たちはこのさびしさから、故郷や家族をしのび、宴席で子供の頃覚えた歌を歌ったのが木崎節の始まりといわれています。
当時の歌詞は卑俗でしたが、戦後東京音頭が全国にヒットしたことから音頭と付く歌がはやり、その流れで木崎音頭へと変わり、踊りの振り付けや歌詞も昔からの節廻しを失ってしまいました。
八木宿で生まれた堀込源太は、馬方渡世で、木崎宿・八木宿間を往復し、木崎宿へ定宿を持ち、飯売女の歌をいつも聞いていました。源太は持って生まれた美声と歌好きで、木崎節を風土に合わせた威勢のよい節に替えて、生地の八木をとって八木節としたと伝えられています。源太は「源太一座」を組織し、周辺各地で興業し好評を博したといわれています。
木崎節が八木節の元唄であることは、多くの民謡研究家にも認められています。木崎音頭は、遠く三国の山を越えて来たまま再び帰ることなく、この地で亡くなった多くの子女の哀歌が秘められ、木崎宿がかつて宿場町であったなごりを伝えるものとして重要です。
越後口説きが源流だったのか。
新保広大寺だったんだ ^^
勉強になりました。
ハアーエ御免こうむり読み上げまする
雨が三年日照りが四年
雨が三年日照りが四年 都合ききんが七年続き
田地売ろうか娘を売ろうか 田地は小作で売るこたてきぬ
田地は小作で売るこたできぬ 娘売ろうと相談かけりゃ
姉を売ろうか妹を売ろか 姉はあばたで金にはならぬ
姉はあばたで金にはならぬ 妹売ろとの相談きまる
売られ買われて木崎の宿の 仲の町なる内林さまへ
仲の町なる内林さま 五年年季で五五二十五両
つとめする身はさてつらいもの つとめする身はさてつらいもの
夜毎夜毎に枕をかわし 今日は田島の主さん相手
明日はいずくの主さんなるや 返事わるけりゃあのばあさんに
返事わるけりゃあのばあさんが こわい目をしてまたきめつける
泣いてみたとて聞いてはくれぬ 客をだましてお金を取って
客をだまして娘を取って 情けかけぬが商売上手
わたしゃ貧乏人の娘に生まれ かけし願いもみな水の泡
かけし望みもみな木の泡 金が仇の此の世の中に
金が欲しいやお金がほしや 二朱や三朱で抱き寝をされて
上るやー段梯子もあの針の山だーやー
おまけ
飯盛女たちの墓