きらり!(^^)!

子どもたちの限りない可能性を求めて!

目から鱗!~少年少女期のスポーツはこうありたい!~

2019-08-16 18:55:59 | スポーツ
長い練習や罵声伴う指導なし 注目集める少年野球チーム

8/16(金) 11:10配信 ・カナロコ by 神奈川新聞

 野球人口の減少に歯止めをかけようと、新たな方針を掲げた少年野球チームが発足した。川崎市高津区のブエナビスタ少年野球クラブ。長い練習時間や投手の酷使、罵声を伴う指導といった慣習から一線を画し、お茶当番の廃止など父母の負担軽減も掲げる。3月の発足以来既に30人近くの選手が集まっており、にわかに注目が集まっている。

 同区の小学校や河川敷で汗を流す子どもたち。上手に捕球できなくても、きれいなヒットが打てなくてもいい。勝利至上主義ではなく、まずは野球を好きでいてもらうことが第一だ。

 結成5カ月で部員は28人になった。代表の男性(40)は手応えとともに言う。「将来野球を続けなくても、子どもが生まれてキャッチボールしようとか、球場に野球を見に行こうとなることが大事。野球人口を増やすには小学校しかない」

 2016年の全国の小中学生の野球人口は50万人弱で、10年間で約20万人減少、県内でも学童野球(小学生)のチーム数が800ほどで10年前から半減しているというデータもある。横浜DeNAベイスターズの主砲、筒香嘉智選手が折に触れて勝利至上主義や旧態依然とした指導法の改善を求めるなど、プロ野球界からも声が上がる。

 もともと高校まで球児だった男性。長男が野球に興味を持った際、少年野球の現状に触れ、危機感を持った。かつて運動能力の高い子どもはおのずと野球を選んでいた。今は必ずしもそうではない。「野球をやりたくても親のしがらみで選べなかった子もいると聞いた。このままだと野球界は本当にまずい」

 先進的な運営手法を取る茨城県つくば市の少年野球チームを参考に、現在小学3年生の長男とともに新チームを立ち上げた。

 「小学校の頃しか親子で一緒に出掛けられないし、(お茶当番などで親が駆り出されることで)きょうだいが犠牲になる可能性もある。子どもの頃は遊ぶことも、勉強することも、家族と過ごすことも大事だし、遊びの中で野球がうまくなることもある」

 だから、練習は土日のいずれか半日のみ。成長の芽を摘みかねない指導者の罵声は禁止している。まだ試合はしていないが、先発投手は70球程度に制限するつもりだ。「基本動作だけ覚えて、次の年代に進めばいい」。男性自身、高校時代にけがで野球を断念した過去がある。

 チーム名の「ブエナビスタ」はスペイン語で「絶景」を意味する。「この子たちが大きくなったときに、今やっているこの景色が、絶景だったと思えるようなチームでありたい」。男性の視線の先には、和気あいあいと白球を追う子どもたちの姿がある。

戦争の愚かさと平和の大切さを知るⅣ~忘れてはならない大切な日~

2019-08-15 21:19:42 | 歴史
天皇陛下、平成の思いを踏襲 戦没者追悼式で初のおことば

8/15(木) 12:29配信・毎日新聞
 注目が集まった全国戦没者追悼式での天皇陛下の初めてのおことばは、上皇さまが平成の30年をかけて積み上げた内容をほぼ踏襲されたものだった。字数も同じ300字弱。ただ、言葉遣いを細かく見ると、戦争を直接経験していない世代としての平和を願う気持ちを込めて変更したと受け取れる部分もあった。
 戦没者と遺族への思いを述べる第1段落は、上皇さまの文言をそのまま用いた。続く、戦後の人々の努力を振り返る段落で、昭和天皇を父に持ち疎開生活も経験した上皇さまが「苦難に満ちた往時をしのぶとき」とした部分は「多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき」とした。

 最終段落では、上皇さまが最後の追悼式で盛り込んだ「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」との一節を引き継ぐ一方、戦後70年の2015年から言及した「深い反省とともに」を「深い反省の上に立って」と表現を変えた。先人の苦難の歴史を忘れてはならないとの思いを示したともいえる。

 宮内庁幹部は「上皇さまの戦争や平和への考えを最も身近に感じてきた陛下が内容を引き継ぐのは自然なこと。戦争を経験していない立場で述べられないことは、表現を見直したのではないか」と受け止めた。

 代替わりで公務から退いた上皇ご夫妻は追悼式に出席せず、住まいで式典の様子を見ながら黙とうしたという。

戦争の愚かさと平和の大切さを知るⅢ

2019-08-14 21:32:22 | 生き方
<つなぐ 戦後74年>「国のために」若き死を忘れぬ 14歳で特別年少兵 上尾の黒川忠さん


2019年8月14日 東京新聞朝刊・埼玉

 太平洋戦争中、「特別年少兵」と呼ばれた最年少の志願兵がいた。上尾市の黒川忠(ただし)さん(90)もその1人だ。年少兵となったのは、自分のひ孫と1歳違いの14歳の時。「10代の若者が『国のために』と死んでいった事実を、今の子どもらにも知ってほしい」と体験を語り継いでいる。

 黒川さんは1928年、10人きょうだいの9番目として生まれた。戦争が始まり、ジャガイモやサツマイモを混ぜた麦飯を大家族で分け合う、ひもじい日々が続いた。国民学校高等科2年だった42年、当時の町職員が学校に特年兵の案内を持ってきた。

 「このまま普通に過ごしていても、どうせ20歳で徴兵に遭う。軍隊に行けば食べ物には苦労しないだろう」。そんな考えが頭に浮かんだ。食料は軍隊が優先された時代だ。「自分がいなくなって、その分、家族が楽になるなら」との思いもあり、志願した。

 父に意思を伝えると、当初は返事もしなかったが、最後に「行ってこい」とだけ言ってくれた。脳卒中で意識不明になっていた母とは、今生の別れとなってしまった。

 43年、神奈川県横須賀市の海兵団で、国語や数学など現在の高校3年までの基礎科目を学んだ。成績が悪いと「軍人精神注入棒」と呼ばれた木製バットで尻を強くたたかれ、真っ赤になった。「怖くて必死に勉強した」

 1年間の課程を終え、同県藤沢市にあった電測学校に配属された。レーダーで敵の飛行機を捉え、距離や角度を予測。この情報がラジオで流す空襲警報の基にもなった。

 半年後、マリアナ諸島に移り、兵隊を運ぶ輸送船を護衛する任務に就いた。しかし輸送船は、敵の魚雷や戦闘機からの攻撃で、どんどん撃沈された。沈みゆく船から、助かろうと必死に海に飛び込む仲間の姿も目にした。「離れた場所から見ることしかできず、つらかった」と振り返る。

 敗色が濃くなり、輸送する船もなくなると、今度は茨城県鹿嶋市にあった神之池(こうのいけ)航空基地へと移された。人間が操縦して体当たりする特攻機「桜花」の訓練が行われていた場所だ。

 特攻隊員が出発前日に酒を飲んだり大騒ぎしたり、親に手紙を書いたりしていた姿は今も覚えている。「見送るたびに、心が苦しくなった」

 16歳で終戦を迎えたが、同じ年頃の特年兵の多くが命を落としたことは、ずっと心に影を落としている。特年兵の慰霊碑がある東京・東郷神社の慰霊祭に毎年参加し、全国から集まる仲間と語り合っていたが、それも高齢化で行われなくなった。

 「何で戦争なんかしちゃったの?」。ひ孫(15)にこう聞かれたことがある。「あの頃は自由がなかった。いつ死ぬかも分からず、今では考えられないことをしてしまっていた」と返すしかなかった。10代半ばで見た戦場。記憶を呼び起こすたびに強く思っている。

 「二度と戦争をしてはいけない」

<海軍特別年少兵(特年兵)> 1942~45年に旧日本海軍が中堅幹部の養成を目的に、14、15歳を対象に採用した最年少の志願兵。4年間で約1万7000人が入隊し、5000人余りが命を落としたとされる。2005年の映画「男たちの大和/YAMATO」(佐藤純弥監督)の題材にもなった。

戦争の愚かさと平和の大切さを知るⅡ

2019-08-13 17:20:26 | 生き方
<20代記者が受け継ぐ戦争 戦後74年> 迫るソ連兵「自決しか」

2019年8月12日 東京新聞朝刊

 「満州はわかる?」

 小谷洋子(こだにひろこ)さん(86)=横浜市港南区=が、模造紙に描いた自作の旧満州(現中国東北部)の地図を広げた。

 一歳の時に家族で満州に渡り、敗戦から約一年後の一九四六(昭和二十一)年十月、十三歳で日本に引き揚げてきた小谷さん。当時の歴史はある程度知ってはいるものの、実際に話を聞くのは初めての私を見て、ひと呼吸置いて語り始めた。

 四五年八月十日、ソ連軍が前日に満州に侵攻したというニュースがラジオ放送で流れた。東西の国境線から小谷さんたちが住むハルビンに到着するまで、一週間ほどとうわさされた。

 「どうやって死のうか」。自宅の応接間で繰り広げられた大人たちの会話に、小谷さんは隣の寝室から耳を澄ませた。若い男は皆徴兵されて戦う力もない。自決する以外の選択肢はないようだった。

 青酸カリを飲むか、日本刀を使うか、広場に集まって手りゅう弾で爆死するか…。「父は何も言わなかったが、一週間で死ぬんだなと思っていた」。女学校からの帰り道、友人同士で「お宅はどうやって死ぬの?」「今度会うときはあの世で」と明るく振る舞ったが、一人になると恐ろしさが込み上げた。小谷さんは記憶をたどるように一点を見つめ、「すごく怖かった」と二度繰り返した。

 しかし、八月十五日に日本の降伏が知らされ、状況は一転。「死ななくていい」とほっとしたが、玉音放送の一時間後には町中で銃声が響いた。敗戦国としてソ連兵を迎え入れることになり、父に「何をされるか分からないから」とバリカンで丸刈りにされ、男物の服を着た。

 ソ連兵が扉をたたくたびに自宅裏にある物置に身を隠した。壁の隙間から、ぶかぶかの防寒服を着たソ連兵が数メートル先で機関銃を抱えてうろついているのが分かり、「胸がドキンドキンと言って、外に音がもれるんじゃないかと思った」。物音を立てれば、見境なく撃たれてしまう。そうして死んでしまった人や、ソ連兵に犯されて自決した女性がいることも聞いていた。

 次々と聞く壮絶な話に、私の顔はこわばっていた。「その場にいたら、私はどうするのか」と考えようとしたが、正直、死と背中合わせの日々を想像することもできなかった。

 「ただ、自分たちが加害者だったのも確か」と小谷さんは言う。当時は意識していなかったが、日本が建国した満州国に暮らしていた自分も、「支配する側」にいた。日本軍の中にも、ソ連兵のように戦場で略奪や暴行をした兵士もいた。「戦争とは愚かしいもの。大義名分をかざして、正しいと思って始めるんだろうけれど、傷つけ合って、殺し合ってしまうものなんだよねえ…」

 小谷さん一家は、自宅に住み込みで働いていた中国人の助けなどを得て、四六年十月、引き揚げ船で帰国を果たした。結婚を機に相模原市へ、その後、横浜市港南区に移り住み、七十歳まで雑誌記者として働いた。五年前から「ちっちゃな種をまくために」と語り部を始め、市内の小中学生に訴えている。「戦争をしないってことが大事なんだねえ。始まってしまったら、その大きな波からは逃れられないから」

 小谷さんの隣に座って話を聞きながら、私が「知っている」と思っていたのは、年表のような歴史だったと気付いた。そこに多くの人が暮らし、一人一人が生死の境をさまよった事実に思いを馳(は)せたことはなかった。

 「始まってしまったら逃れられない」。小谷さんの言葉が深く突き刺さった。戦争を身をもって体験した人々がいなくなった時、戦争の愚かさをどう伝えていくことができるか。私たちの世代は、それが問われている。

<ソ連の対日参戦> 太平洋戦争終結前の1945年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破り宣戦布告。9日に旧満州に侵攻し、関東軍は敗走した。当時の満州は約155万人の日本人が暮らしており、多くの人がソ連軍から逃れて命からがら日本に帰国したが、戦死や逃避行中の病死、餓死などで約24万人が犠牲になったとされる。

異次元!

2019-08-12 21:37:29 | バスケットボール
日本、W杯へ99点快勝発進! 八村塁が両軍最多35得点、凱旋試合で別格の存在感

8/12(月) 19:01配信 ・THE ANSWER

NBAドラフト1巡目指名以降初の国内凱旋、ちびっ子ファンから「ルイ君!」コール

 バスケットボール世界ランク48位の男子日本代表は12日、同38位のニュージーランド代表との強化試合(千葉ポートアリーナ)と行い、米プロバスケットボール(NBA)のウィザーズ・八村塁がSFで先発出場。八村は出場27分9秒で3ポイント2本を含め、両軍最多の35得点に加え、3アシスト、5リバウンドを挙げる活躍を見せ、チームは99-89で勝利を飾った。

 6月のNBAドラフト会議で日本人初の1巡目指名を受けた八村は、昨年9月に東京・大田区総合体育館で行われたW杯2次予選・イラン戦以来329日ぶりの国内試合。満員となったファン5610人の視線を集め、米国で培った実力を見せつけた。

 SFで先発すると、第1クオーター(Q)の開始42秒だった。ゴール下でパスを受けると、振り向きざまにシュートを放ってチーム初得点。前半は出場15分47秒で22得点、1アシスト、3リバウンドを挙げる活躍を見せ、チームは49-43で折り返した。

 後半は第3Q開始1分4秒で得点。ちびっ子ファンから「ルイ君!」のコールが降り注いだ。しかし、第3Q残り6分50秒でこの日3つ目のファウル。会場からは「え~!」とため息が漏れ、ここで八村はベンチへと下がった。

 第3Q終了時点で79-68。八村は第4Q開始から復帰すると、残り9分22秒、同8分43秒に連続得点。同7分52秒には3ポイントシュートを決めて追いすがる相手を突き放した。合計で両チームトップの35得点をマーク。11か月ぶりに日の丸を背負った戦いで強烈な存在感を示した。

 試合後の場内インタビューで「チームに貢献できたことは良かった。僕らもどんどん試合をするごとに良くなっていくので、すごく楽しみ」と笑みを見せた八村。NBAからドラフト1巡目指名を受けて挑んだ試合。プレッシャーについて「これからそうやってNBA選手として見られて相手もガツガツ来ると思うので、それに負けないくらい頑張りたい」と意地を見せた。

 最後は「これから親善試合も何試合も入ってくる。お客さんの歓声が必要になる。どんどん詰めかけてもらって、僕らは日本一丸となってやっていきたい」とさらなる活躍をファンに約束した。

 グリズリーズとツーウェー契約を結ぶ日本人2人目のNBAプレーヤー・渡邊雄太は、2日の練習中に右足首を負傷した影響でベンチから外れた。チームは今後の強化試合として、14日にニュージーランド戦(カルッツかわさき)、22日にアルゼンチン戦、24日にドイツ戦、25日にチュニジア戦(いずれもさいたまスーパーアリーナ)を予定。31日開幕(中国)のW杯1次リーグでは9月1日にトルコ、3日にチェコ、5日に米国と対戦する。