私の心を疎外した張本人。
何のことはない。
それは私自身がそれこそ子供のころからしてきたことのオンパレードだ。
私自身が私の自由意志の発動を疎外してきたのだ。
周囲を右顧左眄して。
結局そんな自分を軽蔑し、自分が軽蔑したところの自分を拒絶していたのは自分自身であった。
論理の飛躍があり、かなり修辞的な表現ではあるが、いい子にしてないと「殺されるから。」
緊張病は意志の病だと精神科医は言う。
意志の発動を疎外すれば、妄想幻覚の有無は関係なく、それは緊張病予備軍だといっていいだろう。
いつ、量から質への転化があるか。
それだけの違いだ。
破瓜病は自分=世界への嘲笑だとικμτは理解している。
自分と世界を軽蔑し拒絶すれば、自分と世界は自我の嘲笑の対象としかなりえない。
そんな何とも言えない現象のとらえ方をしていたのがικμτであり。これまた、いつ、量から質への転化があるか。
それだけの違いだ。
さて、妄想狂は妄想狂独特の認知のゆがみがある。
この場合、緊張病と破瓜病の根底には、自分=世界の等式が成り立つが、妄想狂はそうではない。
その根底にあるのは、胎児のころから存在する自分対母体(母親)=世界との対立関係である。
妄想狂の主張する魔術的な能力を持った圧倒的な他者とは、実は母体(母親)=世界への恐怖(terror)の変形であり、
一つは自分がいつ堕胎によって殺害されるかの母体不信。
二つ目は自分がいつ育児拒否によって殺害されるかわからないとの母親不信。
三つめは胎盤を通じての呼吸から、自発的な肺呼吸へ移行するあの一瞬の臨死体験こそ、その恐怖(terror)の正体なのではないかとικμτは考察するのである。
つまり母親にいつ堕胎され、育児放棄されるかわからないという母親に対する不信。これがバリントが言う基底欠損の正体であり、一種の臨死体験ともいえるべき、あの胎盤故宮から自発呼吸に移る一瞬の恐怖こそH.S.サリヴァンの言うあの恐怖(terror)の正体なのかなあとικμτは推理する。
だとすれば、根底にあるのは自分の生存に対する不安であり、自立する以前の無力な自分が持つ周囲に対する疑惑なのであるから、それは根源的な不安と疑惑であり、それに火が付いたらそれは言語レベルの説得ではどうにもならない。
もっと、原始的なレベルで、肌で分からせるしかないのである。
結局その恐怖(terror)が、彼らの持つコンプレックス(感情に結び付いたイベント記憶)として、患者を苦しめるのであろう。
イベント記憶を回想させると、どういうわけか悪者になるのは他者であり、それを引き起こした自分の不適応活動は無視されるのであるが。
さて、精神疾患というものは、根治療法を施さない限り、いつも、
神経症状態(不安や強迫状態)⇔精神病質状態(不安定な対人接触)⇔精神病状態(幻覚妄想)をいつも可逆的に揺れ動く。
が、医者仲間の世界で「腫物は、つつかなければ、怒らない。」
という言葉があるそうだ。
無理に治そうとして怒らせるより、危険な状態にならなければ放っておくのが一番かもしれない。
そんなわけである。