恋愛
いけもと思うに、それは理屈ではなく実践だとおもう
うん
すべての抽象概念は、理屈ではなく実践なんだろうなあ
愛という単語をいくらこねくり回したって、愛しているという実感や愛されている実感はわかない
愛している側の実践を通じて、自分は誰それを愛している。そして愛を受け入れる実践を通じて、私は誰それに愛されているという実感が湧くのだろうなあ
ある意味、愛情表現を受け入れてもらえることによって、愛が育つのかもしれない
愛情表現を受け入れてもらえないことは、まるで砂地に水をまくようなもので、虚しいことこの上ない
感情は筋肉だという
筋トレによって筋肉が育つように、ある動作をすることによって感情は育つ
恋愛において、一番のネックになることは、想い人に恋愛感情を受け入れてもらうことではなく、自分の心変わりだという
そうなのだ
いくらグリモアールの七十二候の悪魔を使役して、自分の気持ちを相手に受け入れさせたとしても、肝心の自分が心変わりをしてしまっては、どうしようもない
その心変わりを抑えるために、自分の愛情表現がある
が、これは我の力であり、相手が自分の愛情表現を受け入れてくれるから、成り立つのである
そうね
いくら理屈で愛をこねくり回したところで、愛はわからない
実践を通じて、悟るところの何かがあなたが感得した愛なのだ
そういった意味で、私の靴に黒い糸の付いた針を指した女子高生や、私が配ったキャラメルを食べてくれなかった女子大生は、私の愛を受け入れなかったのだ
つまり私は愛の実践を通じて、拒絶という果実を得たのだ
まあいいであろう
受け取られなかった贈り物は自分に帰るという
その人々に向けた愛は自分に戻ってくる
嬉しいことだ
そんなわけである
恨み節なのかなにかの主張なのかよくわからないが、今日はこの辺にしておこう
以上、いけもと