会話のキャッチボールと言葉のドッチボール。
会話のキャッチボールはこれ以上楽しいものはないが、言葉のドッチボール。これは不愉快だ。
会話のキャッチボールをするためには、相手の話をよく聞くことだ。
枕草子に出てくる清少納言と中宮定子のような、当意即妙の会話など目指さなくていい。
人は自分の言うことをよく聞いてくれて、それできちんとしたりアクションを返してくれれば、望むリアクションでなくても満足するものなのだ。
会話のキャッチボールによる相互満足。
これこそ、雑談のアクメであろう。
そう、会話はセックスなのだ。
言葉のオナニズムや会話のサドマゾヒズムを楽しむ人々。
これが真の意味でのコミュニケーション障害の人々なのである。
言葉のオナニズムや会話のサドマゾヒズムは、いちいち例を挙げなくても、読者の皆様も体験したことだろう。
言葉のオナニストや言葉のサドマゾヒストたちと会話をすると、ぐたーっと疲れたり、腹が立ったりする。
それが人をして、自分から離れていく原因だと反省しないのが、言葉のオナニストであり、言葉のサドマゾヒストたちである。
そんなコミュニケーションを愛好する変質者もいるが、そんな手合いとは誰も話をしたくなくなるのだ。
会話のキャッチボールは楽しい。が、言葉のドッチボールはいやだ。
それが精神的に健康かどうかを示す、指標なのである。
以上、ИКМТ。