宗教の救済などいい加減だ。
救済条件に斉一性もクソもない。
例えば念仏。
サンスクリット語経典によれば、無量寿経を信じない人のみが弥陀に帰依しても極楽に往生できないことになっているが、漢訳経典には、それに五逆十悪のものが書き添えてある。
それだけでもおかしいのに、浄土教では、仏を念じるのではなく、マントラを唱えることが、救済条件になっている。
法然の浄土宗ではそうであるが、親鸞の真宗では、このマントラは弥陀が唱えさせる感謝のマントラだという。
さらに同じ真宗でも、救済条件に、臨終の一念で、弥陀の本願と浄土往生を信じる必要があると言う。
こうなってくると、何が浄土往生の条件かわからない。
つまり救済の条件が一定しないのだ。
そんなものに金を払わないと、キリシタンだと断定されて酷い目にあったカッコ付きの隠れキリシタンとされて殺された人々、そしてこんないろんな説が入り混じって何が正統だかわからない教義なのに、師の教えに盲従しないと異安心だと断定されて迫害された人たちは哀れである。
明日は亡父の誕生日だ。
生きていれば八十五歳である。
きっとお父さんが教えてくれたのだろう。
ありがとう、パパ。
以上、管内東京市本郷区でいけもと。