映画「われ弱ければ(矢嶋楫子伝)」が電気館で上映されました。2月11日~2月17日でした。(カンリニン)
矢嶋楫子は病気に倒れた兄・直方の看病のために長崎港から蒸気船で東京へ向かう。兄は治水土木の専門家として明治政府に招聘され、大丞職(現在の次官クラス)という地位にあり、渋谷・猿楽町に能舞台のある大きな屋敷に住んでいた。多勢の書生が仕えており、その中に後に恋仲になる鈴木要介がいた。
長崎港には大小様々の船が停泊していたが、その船にはみな楫がついている。その楫によって船の進行方向が定まるという当たり前のことが、この時、楫子の心に神の啓示のように「ある事」が閃く。「そうだ、この楫のように私も自分の進む道は自分で決めよう」。名を「かつ」から「楫子」に改め、その決意を固めた。林との結婚が失敗したのも、自らの意思でなく周囲から言われるままだったことへの痛烈な反省が込められていた。(明治5年39才の時)
楫子は25才の時、兄の勧めで300石取りの熊本藩士・林七郎の後妻になる。当時25歳といえば婚期を逸しており、初婚など望むべくもないこと。
林は兄・直方と同じく横井小楠の門弟で、小楠の勧めもあって、この縁談には兄・直方が乗り気になった。林は竹を割ったようなサッパリした気性で、そこはよいのだが、酒を飲むと人格が変わってしまう酒乱であった。夜刀を振り回して暴れるのだから楫子はその応接で辛労が重なり甚だしい衰弱に陥ってしまう。また、疲労は眼に来て半盲の状態になってしまった。
ある夜投げつけられた小刀が楫子の左腕に刺さり、抱いている赤児の命も危うかった。10年間辛抱し三児(治定・なも子・達子)を設けたが我慢もこれまで、乳飲み児の達子を抱いて実家へ帰り、再び婚家に戻ることはなかった。
これまでも夫の酒乱に絶えかねて実家へ逃げ帰ったことは何度もあったが、その都度迎えが来て連れ戻されていた。
楫子を迎えに矢嶋家を訪れた林七郎へ、兄・直方は楫子の意志の堅いことを告げ、楫子が認めた離縁状に切り取ったばかりの黒髪を挟んで渡した。これが妻から夫へ出した日本で初めての離縁状である。どのような文面なのか映画の画面から読みとることは出来なかった。
上京した楫子は兄・直方の勧めで小学校教員伝習所へかよい教員になる。(41才)
市立桜川小学校教員となって1年あまり経ったころ、楫子は書生のひとりで妻子のある鈴木要介と恋仲になる。鈴木は心から楫子を尊敬しており、兄・直方の家政の切り盛りなど諸事相談にのってくれて親切だった。妻子のある男と知りつつも、鈴木に惹かれていく楫子の心を責めることはできまい。
だが、この恋にもやがて破局が訪れる。楫子が妊った事を告げたとき鈴木は喜んでくれたが、その時の鈴木の言葉に楫子は深く傷ついた。「妾の子として入籍しよう」というのである。これは当時の社会ではごく普通のことで、そのような形で妾を囲っている男はいっぱいいたし、鈴木も当然の愛のある処置と考えていた。楫子はこのことに我慢がならなかった。「あなたにはもう2度とお逢いいたしませぬ。子供は私が育てます」。
その後、楫子は教員を続けながら練馬村の農家に下宿して「妙子」を産む。そして相当の金を出して将来引き取ることを条件にその家に里子に出す。
そういう経緯で誕生した「妙子」であったが、今は写真のように美しい娘に成長した。
「お母様、あのお方、先ほどからずっと私たちを見ていらっしゃるの。ご存知の方・・?」「いいえ、ずっと以前に知っていた人に似ていらっしゃると思ったけど、別人でした」。
男は鈴木要介であった。この時楫子は64才になっていて「日本キリスト教婦人矯風会初代会頭」の肩書きを持つ有名人になっていた。
運命とは、命を運にあずけることです。
大切な命を運に任すのでなく、
これからの女性は、使命を持って生きてください。
使命とは、命を使うことです。
自分の命は、自分で使うのです。矢嶋楫子
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