たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

亡母百ヶ日忌 墓参 読経

2012年07月26日 | 日記

昨日は早いもので亡母の「百ヶ日忌」であった。故郷ではお寺へ行ってお経を一巻上げてもらうと言っていた。
私は亡妻の祥月命日にも近く、墓参し「阿弥陀経」を上げてお参りしてきました。

阿弥陀経は三蔵法師鳩摩羅什(くまらじゅう)の翻訳である。三蔵法師とは訳経僧のこととある。孫悟空の三蔵法師とは違うらしい。
そのひとり鳩摩羅什玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)と、二大訳聖とある。女犯で破戒し還俗させられたとは人間的でよい。語学の天才と言われる。

阿弥陀経は、「如是我聞 にょうぜがもん」で始まる。
「かくのごとき、我聞き給えり、一時、仏、舎衛国の祇樹給弧独園(ぎじゅぎつこどくおん)にましまして、大比丘衆(だいびくしゅう)1250人と倶(とも)なりき・・」と始まる。多数を1250人と表現したのであろう。
終わりは、「舎利弗(しゃりほつ:高弟)およびもろもろの比丘、一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞き給えて、歓喜し、信受して、礼を作(な)して去りにき。作礼而去(さらいにこ)」と、終わる。
最近流れるようには読経できなくなった。

犬山の観音さま寂光院山主は、お経は文字通り本を読みながら称えよ。暗記しなくてもよい、本山の高僧でも本を手にかざして読経されると話された。
ここでの読経は般若心経を称える。般若心経は文字にしてわずか262文字ながら、仏教のエキスだといわれる。お経の始まりは
観自在菩薩。行深般若波羅密多時。(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ)、
照見五蘊皆空。度一切苦役。(しょうけんごうん かいくう どいっさいくやく)

この冒頭部分は「般若心経」のそのもののエッセンス・真髄であるといわれる。
まず「観自在菩薩」とは、つまり「観世音菩薩」のことである。私たちが観音さまと呼んで親しんでいる菩薩(成仏のため修行を積んでいる人)で、私たちの救いを求める声をきくや、たちどころに救いの手をさしのべるという、ありがたい存在といわれる。

その観自在菩薩が般若波羅密多の修行をしているとき、次のようなことを悟った。

「五蘊」(ごうん)つまり、人間を構成している五つの要素----色(しき:身体)、受(じゅ:感覚)、想(そう:心に思い描いたもの)、行(ぎょう:意思や欲求)、識(しき:心の全体の動き)----
お経では、受、想、行、識、と出る。
ひとことでいえばこれら「心身」のすべてが「空」であることを洞察したのである。
ここでいう「空」の意味は、私たちがふつうに考える「空っぽ」とか「空しい」という感じとは違い、それは「確固とした実体ではない」という意味なのである。そうしたニュアンスを「空」という言葉で表しているわけだ。

この悟りによって、観自在菩薩はすべての苦悩を克服したという。度一切苦役だ。
私の宗派浄土仏教を除けばどの宗派もこの経典を極めて大事なものとしている。たったの262文字で説かれた仏の智慧なのです。

観自在菩薩。行深般若波羅密多時。 かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ
照見五蘊皆空。度一切苦役。 しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく
これだけが重要なのです。
“以上出典:いまだから求められる「仏教」早わかりエッセンス事典 土屋書店1990・12刊”

照見(しょうけん)とは:仏語。物事の本質や実相を正しく明らかに見きわめること。他の何ものにも邪魔されないで正しい道理を示すこと。また、その教え。正しい教理。とネット辞書にあります。

先週悩んだ色(身体)の不調、今日は皮膚科へ行って遠赤外線治療です。顕微鏡検査の結果は帯状疱疹(たいじょうほうしん)と照見できたかどうか、次々と不調が襲い「度一切苦役」となりません。