たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

ニ上山 (にじょうざん)

2012年02月12日 | 旅行

ふるさとは名残雪

あるとき高校の級友と、彼の趣味・仏像彫刻の師、東京・浅草在の著名な仏師と三人で大和の国と河内の国境になる二上山(にじょうざん:ふたがみやま)のふもとにある當麻寺(たいまでら)を訪ねた。

この二上山には大津皇子が葬られている。大津皇子(おおつのみこ)は要するに皇位継承争いの犠牲になられた皇子であろう。
”686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御されると、1ヶ月も経たない10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意ありとして捕らえられ、翌日磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸で死を賜ったのである。日本書紀には妃の山辺皇女が殉死したと記されている。”(ウィキペディア)

”大津事件に連座した流僧・新羅沙門(しらぎのしゃもん)幸甚(こうじん、行心とも)は飛騨国の伽藍(がらん)に移された。(俗人なら流罪に相当)
行心の子である隆観(りゅうかん)が大宝二年(702)四月に、神馬(しんめ)を献じたことから罪を許されヒダ国の表記、「斐太」、「斐陀」、「飛騨」へとなったのではないかと推測されている。神馬とは龍馬のことで普通の馬ではなく空飛ぶ馬ペガサスです。”
・飛騨 よみがえる山国の歴史 和田萃(あつむ)京都教育大教授 基調講演
"この伽藍はどこか⇒最も有力候補なのが古川・国府盆地の(現存しない)寿楽寺です。"
・同上 八賀晋 三重大教授 基調講演 飛騨国府シンポジューム

私が生まれ育った飛騨の国名と、このニ上山は何かと縁が深いのである。そこで一度當麻寺へ行って見たいと思ったのだ。私どもが学んだのが斐太高校夜間部なのである。

古代仏教はこの二上山の山容が双頂で雄岳、雌岳が北南に位置し三尊来迎のイメージとピッタリの姿なので源信が絵画に残したのであろうか。西方浄土といって極楽は西にある。大和から見てニ上山は西に位置する。また源信は当麻に生まれた。

當麻寺へお参りしたとき居合わせ旅人が二上山の大津皇子の墓へ詣でたといわれた。質素な墓があるのみと答えられた。日本書紀は多分に勝者の側から書かれた歴史書ともいわれる。
      ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
                                                                       (万3-416)大津皇子
辞世の句として知られる。

山越えの阿弥陀図
は代表的作例としては京都の禅林寺本と金戒光明寺本がある。そのほかにも沢山あるようだ。

 


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