今週は色々と、人生を考える週だった。
特に水曜日以降。
水曜日、自分と接点のあった二人が亡くなった。
一人は、嫁さんの方の伯父。
享年85歳。
死因は脳梗塞。
自分が三年前に患った病名だ。
実際は二年近くを、もう高齢の衰弱から来る様々な問題で入院生活を送っていた。
それが月曜日に、最後の最後で脳梗塞としてあらわれて息を引き取った。
年齢的にも大往生と言ってもいいかも知れない。
一度も会った事がないような坊主は呼ばず、家族葬として送らせたもらった。
故人と、そのご家族の大変な闘病生活を、親族はよく知っている。
伯父も、伯母も、我々夫婦のことを気にかけてくれていたことも知っている。
親子ですれ違ってて、ここ数年は会話が少なかったことも知っている。
しかし、最後は全員が、故人を惜しんで、涙で棺の蓋を閉めた。
斎場まで一緒に行き、棺が炉の中に納められ、2時間ちょっとして、お骨あげも一緒にさせて頂いた。
変な表現になるが、すごく真っ白で綺麗なお骨であった。
どこか体の不調があれば、その部分が変色をしたりするらしいが、そんな事もなく、本当に真っ白であった。
それを親族で骨壷に入れていく。
ここまで来ると不思議なもので、伯母さんからも笑顔が見えるようになった。
無事に故人の人生の最後を、おごそかに送ってやることが出来たという、安堵感が我々一同を包んでいた。
伯父は本当に、人生をまっとう出来たんだと、思えることができた。
同じ日の夜、地元の後輩から、泣きながら連絡があった。
数年前に横浜に引っ越した友人が死んだという。
元々は地元の後輩で、同じギター弾きとして、友人でもあった。
自分よりは7歳か8歳ほどの年下だったと思う。
うちの子供達がまだ小学生のころ、彼が横浜に引っ越す前はよく遊び相手になってくれたものだ。
心の病を、彼の母親から遺伝のように受け継いでいた彼は、水曜日に自ら命を絶った。
横浜の実家に帰ってからは病状も落ち着き、ここ数年は自分のBANDを組んで、頻繁にライブ活動を行っていた。
昨年末には、最近はBANDの固定ファンも付いてきて、盛り上がっていると教えてくれていた。
また、今年になってから、自分自身も10年ぶりにライブを行う話をしたら、我が事のように喜んでくれ、当日にはなんとか横浜から駆け付けたい、と言ってくれていた。
死ぬ三日前の日曜日には、震災復興ライブにも参加していたようで、その夜に、元気そうにBLOGを更新をしていたのも知っている。
結婚もして、子供がまだ幼稚園にも行っていないのを知っている。
なのに彼は、自分の手で、自分の人生を終わらせてしまった。
自分のことを良く慕ってくれて、人生の悩みも語っていてくれた彼。
遠く離れたからと言って、縁を切らず、連絡をくれていた彼。
同じ水曜日が命日であったが、彼の葬儀はこの週末であった。
自分は予定があって参列できなかったが、後輩の数人は京都から駆け付けて参列したようだ。
しかし、自分は予定を、本当にキャンセルできなかったのか、と言えば何とか出来た可能性もある。
では、何故、参列しなかったのだろうか。
参列をして見送ってやりたい、と切に思ったのは事実だ。
しかし、先輩として、友人として、彼が死を決意するまでに、何の力になってやれなかった自分が参列するのが怖かったのも事実だ。
本当に、自分は無力なんだと感じる。
自分の無力さを、自分で罵りたくなる。
いや、まだ、まだ、今の自分では無力なんだと思う。
もっと、人間として成長が必要なんだ、とも思う。
どんな事も受け止めることができて、自分と縁のある多くの人々が、前向きで頑張る気になるような、そんな影響を与えられるような人間に成長したいと、切に願う。
特に水曜日以降。
水曜日、自分と接点のあった二人が亡くなった。
一人は、嫁さんの方の伯父。
享年85歳。
死因は脳梗塞。
自分が三年前に患った病名だ。
実際は二年近くを、もう高齢の衰弱から来る様々な問題で入院生活を送っていた。
それが月曜日に、最後の最後で脳梗塞としてあらわれて息を引き取った。
年齢的にも大往生と言ってもいいかも知れない。
一度も会った事がないような坊主は呼ばず、家族葬として送らせたもらった。
故人と、そのご家族の大変な闘病生活を、親族はよく知っている。
伯父も、伯母も、我々夫婦のことを気にかけてくれていたことも知っている。
親子ですれ違ってて、ここ数年は会話が少なかったことも知っている。
しかし、最後は全員が、故人を惜しんで、涙で棺の蓋を閉めた。
斎場まで一緒に行き、棺が炉の中に納められ、2時間ちょっとして、お骨あげも一緒にさせて頂いた。
変な表現になるが、すごく真っ白で綺麗なお骨であった。
どこか体の不調があれば、その部分が変色をしたりするらしいが、そんな事もなく、本当に真っ白であった。
それを親族で骨壷に入れていく。
ここまで来ると不思議なもので、伯母さんからも笑顔が見えるようになった。
無事に故人の人生の最後を、おごそかに送ってやることが出来たという、安堵感が我々一同を包んでいた。
伯父は本当に、人生をまっとう出来たんだと、思えることができた。
同じ日の夜、地元の後輩から、泣きながら連絡があった。
数年前に横浜に引っ越した友人が死んだという。
元々は地元の後輩で、同じギター弾きとして、友人でもあった。
自分よりは7歳か8歳ほどの年下だったと思う。
うちの子供達がまだ小学生のころ、彼が横浜に引っ越す前はよく遊び相手になってくれたものだ。
心の病を、彼の母親から遺伝のように受け継いでいた彼は、水曜日に自ら命を絶った。
横浜の実家に帰ってからは病状も落ち着き、ここ数年は自分のBANDを組んで、頻繁にライブ活動を行っていた。
昨年末には、最近はBANDの固定ファンも付いてきて、盛り上がっていると教えてくれていた。
また、今年になってから、自分自身も10年ぶりにライブを行う話をしたら、我が事のように喜んでくれ、当日にはなんとか横浜から駆け付けたい、と言ってくれていた。
死ぬ三日前の日曜日には、震災復興ライブにも参加していたようで、その夜に、元気そうにBLOGを更新をしていたのも知っている。
結婚もして、子供がまだ幼稚園にも行っていないのを知っている。
なのに彼は、自分の手で、自分の人生を終わらせてしまった。
自分のことを良く慕ってくれて、人生の悩みも語っていてくれた彼。
遠く離れたからと言って、縁を切らず、連絡をくれていた彼。
同じ水曜日が命日であったが、彼の葬儀はこの週末であった。
自分は予定があって参列できなかったが、後輩の数人は京都から駆け付けて参列したようだ。
しかし、自分は予定を、本当にキャンセルできなかったのか、と言えば何とか出来た可能性もある。
では、何故、参列しなかったのだろうか。
参列をして見送ってやりたい、と切に思ったのは事実だ。
しかし、先輩として、友人として、彼が死を決意するまでに、何の力になってやれなかった自分が参列するのが怖かったのも事実だ。
本当に、自分は無力なんだと感じる。
自分の無力さを、自分で罵りたくなる。
いや、まだ、まだ、今の自分では無力なんだと思う。
もっと、人間として成長が必要なんだ、とも思う。
どんな事も受け止めることができて、自分と縁のある多くの人々が、前向きで頑張る気になるような、そんな影響を与えられるような人間に成長したいと、切に願う。