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山形県上山市 春雨庵 上山城郷土資料館 斎藤茂吉記念館「ダンスホール事件」 上山温泉下大湯 蔵王温泉下湯

2024年10月03日 13時08分49秒 | 山形県

春雨庵(はるさめあん)。山形県上山市松山。

2024年9月7日(土)。

楢下宿の北側にある丹野こんにゃく店・こんにゃく番所でこんにゃくを食べたのち、上山市街地へ向かい、まず“たくあん漬け”で知られる沢庵和尚ゆかりの春雨庵を見学した。幹線道路から狭い道を下ると、入口向かい側に数台の駐車スペースがあった。

春雨庵は、1629年(寛永6年)京都・大徳寺の僧であった沢庵宗彭(そうほう、1573~1646年)が紫衣事件で上山藩に配流された時に、上山藩主土岐頼行が仮住まいとして寄進した建物で、沢庵はこの庵に「春雨庵」と名付け3年間過ごした。

沢庵宗彭は、慶長14年(1609年)、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、1620年郷里出石に帰り、隠棲の生活に入った。

寛永4年(1627年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。これに反発した沢庵は京に上り、玉室宗珀、江月宗玩と共に大徳寺の僧をまとめた後、妙心寺の僧らと反対運動を行い、寛永5年、抗弁書を書き上げて幕府に提出した。

この運動が幕命に反するものとして、沢庵たちは罪に問われ、寛永6年(1629年)、7月に幕府は沢庵たちを有罪とし、沢庵を出羽国上山に、玉室らを陸奥や出羽国各地に流罪とした。時に沢庵57歳のことである。

配流先である上山藩主の土岐頼行は、沢庵の権力に与しない生き方と「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、沢庵に草庵を寄進するなど厚く遇した。沢庵はその草庵を春雨庵と名づけ、こよなく愛したといわれている。配流中、頼行は藩政への助言を仰ぐなど沢庵を遇すること実の祖父の如くといい、沢庵赦免後も二人の交流は続いたという。

寛永9年(1632年)、徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海、堀直寄、柳生宗矩などの尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。玉室と共に大徳寺に戻った時、将軍・徳川家光の上洛に際し、沢庵は家光に拝謁した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになったという。1635年、幕命により再び江戸に下ったのち家光に近侍し、1639年家光によって創建された品川の萬松山東海寺に初代住職として入った。1641年紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光から申し渡されて大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣奪還も行われ、大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は続くことになった。

現在の春雨庵は1953年旧跡地に復元された。

ひっそりと趣深い建物の中に鎮座する沢庵禅師像から、故人の面影を偲ぶことができる。

沢庵は江戸に帰ってからも春雨庵で過ごした頃が忘れられず、時折語り草にしたことから、土岐頼行は、江戸品川の東海寺の境内に塔頭を建立し、その名も春雨庵と名付け、土岐家の菩提寺とした。

沢庵は、茶の湯(茶道)に親しみ、書画・詩文にも通じ多くの墨跡を残している。その沢庵にちなんで

敷地内には二つの茶室が新設されている。

茶苑入口に近い聴雨亭は国宝茶室の待庵の造りを写している

土岐家の江戸屋敷にあった石燈籠が敷地の改修の為に上山市に寄贈され、その内の1つが園内に移築されている。

上山城模擬天守下の碑文。沢庵の政治の要諦「上中下三字説」。

上山城郷土資料館(上山城模擬天守)。上山市元城内。

上山城は、別名月岡城で、江戸時代には上山藩の藩庁が置かれた。

南北朝時代、天童頼直(最上氏の祖斯波兼頼の孫)の子上山満長が上山に配されたことに始まる。満長は上山市松山の虚空蔵山に高楯城を築き居城とした。永正5年(1508年)に伊達氏がこの城を攻め落とし、城主上山義房は逃亡。伊達家臣小簗川貞範がこの地に入った。永正17年(1520年)最上義定の死去に伴う混乱に乗じて義房が兵を挙げるものの伊達稙宗と戦って討死する。

天文4年(1535年)上山義房の子武衛義忠が城を奪還。義忠によって天神森に改めて築城された平山城が現在の上山城である。以後城主は武衛義節、そしてその子上山満兼と続く。この頃、天童氏は最上八楯を形成し、最上義光と対立。満兼も天童一門として義光に従う事を拒否し、伊達氏とともに山形を攻めるなどした。しかし天正8年(1580年)義光は里見民部を寝返らせて上山城を攻め落とし、城主満兼は討死。代わって里見民部が上山城主になった。

江戸初期に最上氏が改易された後の上山藩藩主家は、能見松平氏2代(4万石)、蒲生氏1代(4万石)、土岐氏2代(2.5万石、後3.5万石)、金森氏1代(3.87万石)と入れ替わった後、元禄10(1697)年藤井松平氏が封じられてからは、明治維新時の10代(3万石)信安の代まで続いた。

上山城は、本丸を囲んで一段低く周囲に二の丸があり、外濠が取り巻いていた。本丸に三重の天守や各所に櫓門がある近世城郭として土岐氏時代に整備され、月岡・天神森にそびえるその壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れ渡っていたが、元禄9(1692年)金森氏の転封とともに幕府により取り壊された。藤井松平家が封じられた際に上山城は再興されたが、天守はなく、二の丸に居館を設けた程度の城構えで明治を迎えた。

城跡は月岡公園および月岡神社境内となり、1982年に二の丸跡に3層の模擬天守が建立されたが、再建当時、実際には天守の無かった城を天守付きで再現することについて論議を呼んだ。模擬天守の内部は、郷土資料館として利用されている。内部撮影は禁止である。

天守展望台からの風景。東方に蔵王連峰が遠望できる。

天守展望台からの風景。

上山温泉下大湯公衆浴場。上山市十日町。

洗髪なしの入浴料160円。郷土資料館からすぐの駐車場は広い。

斎藤茂吉記念館。上山市北町弁天。

駐車場からJRの跨線橋を渡るが、意外と近い距離だった。谷口吉郎の設計はどこも同じである。

歌人・精神科医である斎藤茂吉の記念館は、茂吉の生家である上山市金瓶(かなかめ)の南にある。

1968年に開館した建物は、今泉篤男の推薦で建築家谷口吉郎が設計を担当。表札は安田靫彦が揮毫した。また、1989年谷口の子息である谷口吉生が設計を手掛けて改修・増築され、2018年改装リニューアルオープンした。

明治天皇が東北巡幸に際に小休止されたことに因む「みゆき公園」に位置する。公園内には、茂吉が箱根山荘勉強部屋と呼んだ箱根の別荘の離れが移築されている。

最近、北杜夫「母の影」(1994年)を読んだ。昭和8(1933)年の「ダンスホール事件」では、ダンス教師の男が有閑マダムらを顧客に情痴の限りを尽くして検挙されたが、斎藤茂吉の妻輝子は某院長夫人として新聞に登場し警視庁から聴取を受けている。輝子は茂吉の激怒を買い、家から出ていったのだ、という。

輝子は「ダンスホール事件」の前にも2度ほど情事を行っていたらしく、茂吉も知っていたであろう公然の秘密であった。茂吉も、女中と恋仲となり相聞歌を作り、医局時代は盛んに遊郭に通っていた。

北杜夫(斎藤宗吉)の2歳上の姉百子は器量よしで輝子のお気に入りであったが、茂吉は百子にきびしかった。茂吉が百子の出生に疑いを持ち始めたことも一因だろう。つまり、百子は母が浮気して妊娠し、それを糊塗するために、ドイツ留学を終えた茂吉を迎えに、輝子はヨーロッパまで渡り、パリですぐに交合したという説もある。

パリでの二人を撮影した写真も展示されていたが、こういう背景を知っていたら見方も違ったろう。

 

15時ごろになり、蔵王温泉へ向かった。

蔵王温泉下湯共同浴場。山形市蔵王温泉。

事前調査では、上湯共同浴場の無料駐車場は、上湯や川原湯の近く、または体育館にあるということだったが、バスターミナル北の池まで着いて現在地が分からなくなった。グーグルマップで確かめて下湯まで行くと、体育館かガソリンスタンドに無料駐車場があるという。ガソリンスタンドの位置は不明なので体育館横に駐車にした。そこから10分ほど歩いて再び下湯に着いた。

料金を払おうとしたが、自販機などがなかったので、無料で入場した。驚いたことに誰もいなかったが、15分ほど滞在するうちに5人ほどが入浴してきた。

蔵王温泉下湯共同浴場。

良質な硫黄泉である。洗髪もしたが、硫黄泉のため洗髪はできないと書いてあった。

 

このあと、道の駅「山形蔵王」へ向かった。

山形県上山市 国史跡・楢下宿(ならげしゅく) 丹野こんにゃく店



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