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山形市 山形城跡 長谷堂城跡 現存日本最古の石鳥居 

2024年10月04日 09時00分51秒 | 山形県

長谷堂城跡周辺。山形市長谷堂。

2024年9月8日(日)。

道の駅「山形蔵王」で起床。日程的に山形市の大部分と天童市の全見学予定地を今日中に済ませる必要があった。山形市の山形県立博物館が9時開館なので、それまでに長谷堂城跡と「元木の石鳥居」を見学することにした。

長谷堂城跡のアクセスは現地で分かると思い調べていなかった。長谷堂地区に入り、地道から北方向を眺めて、前方の丘陵が長谷堂城跡かと思った。いずれにせよ低い残存丘陵が重なっている地帯との感想を持った。丘陵の横の幹線道路を通り案内板を探したが見つからなかった。雨が降っており、クマが出るかもしれないと脅されていたので、そのまま「元木の石鳥居」へ転進した。

ネットで調べると、長谷堂城跡公園のパンフレットがあり、駐車場や本丸跡へのアクセスも明確だった。

長谷堂城は、慶長5年(1600)9月の「北の関ケ原」といわれる長谷堂合戦の舞台になった城である。

慶長5年9月8日、西軍石田三成方の上杉軍は米沢と庄内の二方面から、東軍徳川家康方の最上領へ向けて侵攻を開始した。上杉勢の指揮を執る将は景勝の重臣直江兼続で、総兵力は2万5000人にも及んだ。それに対して最上軍の総兵力はおよそ7000人にすぎず、しかも居城の山形城をはじめ、畑谷城や長谷堂城など多くの属城にも兵力を分散していたため、山形城には4000人ほどの兵力しかなかった。

直江兼続は、長谷堂城近くの菅沢山に陣を取り、長谷堂城を包囲した。長谷堂城は山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側に位置し、山形城からは南西約8キロのあたりに位置する山形城防衛において最も重要な支城であった。また、この時点で最上川西岸地域および須川西岸において唯一残る最上氏側の拠点となっていた。つまり、長谷堂城が落ちれば上杉軍は後顧の憂いがなくなり、須川を挟んだ攻防を経て山形城攻城戦に取りかかることは明らかだった。

9月15日最上義光は嫡男最上義康を伊達政宗に派遣し援軍を依頼した。伊達政宗は叔父留守政景を救援に派遣することを決める。

この時、長谷堂城は最上氏の重臣・志村光安以下1000名が守備し、攻め手は直江兼続が指揮を執る上杉軍1万8000人。9月15日、兼続は大軍を背景に力攻めを敢行。しかし志村は寡兵ながらも防戦し、9月16日には200名の決死隊と共に上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛ける。これにより上杉勢は同士討ちを起こすほどの混乱に陥り、志村は兼続のいる本陣近くまで攻め寄って、250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げた。

9月17日、兼続は春日元忠に命じ、さらに城を攻め立てた。しかし、長谷堂城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動ができない。そこへ最上軍が一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に撃ちつけた。

9月21日には、伊達政宗が派遣した留守政景隊3千の軍勢が白石から笹谷峠を越えて山形城の東方(小白川)に着陣し、9月24日には直江兼続本陣から約2km北東の須川河岸の沼木に布陣する。また、最上義光も9月25日山形城を出陣し、稲荷塚に布陣した。ここにおいて一時戦況は膠着するものの、9月29日上杉勢は総攻撃を敢行、長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦し、上杉軍の武将・上泉泰綱を討ち取るという戦果を挙げた。

そしてこの29日に、関ヶ原において石田三成の西軍が、徳川家康の東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされた。敗報を知った兼続は自害しようとしたものの、前田利益(慶次郎)に諫められ、撤退を決断したとされる。翌9月30日、最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転する。

10月1日、上杉軍が撤退を開始、最上伊達連合軍が追撃した。富神山の付近で陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど激戦となり、両軍多くの死傷者を出した。追撃軍を迎え撃つため、直江兼続は自ら畑谷城に手勢と共に立てこもって殿をつとめ、10月3日に荒砥へ退却した。前田利益や水原親憲などの善戦もあり、兼続は鉄砲隊で最上軍を防ぎながら追撃を振り切り、10月4日に米沢城へ帰還した

この撤退戦は後世まで語り草になった。家康も兼続が駿府を訪れた時「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の者」とおおいに賞賛したという

この戦いは、「奥羽における東西合戦」と言える。最上軍は少ないながらも善戦したことにより、戦後家康はその功績を賞賛し、義光が切り取った庄内地方の領有権を認めるとともに、佐竹氏との領土交換により雄勝郡・平鹿郡に替えて由利郡を与え、出羽山形藩は57万石の大藩となった.

敗れた上杉景勝は庄内、会津などを没収され、米沢30万石のみを許された。

重文・元木の石鳥居。山形市鳥居ヶ丘。

現存する日本最古の鳥居で、「御立(おんたち)の鳥居」ともいわれる。山形市街地のやや南東寄りに位置する。

正確な建立年代は不明だが、瀧山信仰の全盛期、天延年間(973-976年)に瀧山大権現へ奉納されたという言い伝えがあり、その様式の古さから平安時代に遡るものと考えられている。

瀧山(りゅうざん)信仰の象徴とされ、瀧山を背景に西面している。高さ351cm、左柱の径が97.1cm、右柱の径が92.3cmである。

様式は明神鳥居で、笠木にわずかに反りがある。石材は凝灰岩で、笠木と島木は一石から彫り出している。島木の左下端は巧みに接ぎ合わせている。貫は柱を貫通せず、両側から穴を掘って挿し込んでいる。柱をはじめ各部分が太く、幅に対して高さの低いことが古い様式の特徴を示している。柱の下部は戦後、コンクリートで太く補修されている。

 

山形城跡である霞城公園の駐車場に向かい、8時30分ごろに到着した。

国史跡・日本100名城・山形城二の丸跡。最上義光(よしあき)の騎馬像。山形市霞城町。

復元された東大手門の内側。この門の規模は江戸城の城門に匹敵する。出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦「長谷堂城の戦い(長谷堂合戦)」のおり、先陣を切って合戦に向かう最上義光の雄姿が銅像になっている。

山形城は東北屈指の戦国大名・最上義光がその礎を築いた。山形市市街地のほぼ中央にあり、第二次世界大戦後は「霞城公園」として一般公開され、近年、発掘調査と復原工事のプロジェクトが進行中である。1991年には城門の「二ノ丸東大手門」、2005年には「本丸一文字門大手橋」などの復原が進み、往時の趣きを取り戻しつつある。

公園内やその周囲には、明治時代に建てられた擬洋風病院建築「旧済生館本館」を移築復原した「山形市郷土館」をはじめ、山形県立博物館、山形美術館、最上義光歴史館などの文化施設がある。

山形歩兵第32連隊の碑。霞城公園。

第32連隊は、1896年(明治29年)に編成を終え、秋田市に連隊本部を設置。第8師団隷下に入り、1898年に軍旗を拝受。1904年に始まった日露戦争に参加後、秋田市から山形城へ転営。1937年(昭和12年)満洲国駐剳となった。1939年、第8師団から、満洲で新設された第24師団に所属変更。同時に、連隊の徴募区が山形県から北海道に変更された。

1944年1個大隊がサイパン島に派遣された。同年7月、連隊主力に出動命令が下り、沖縄へ移動

1945年、第32軍司令官の牛島満中将が6月23日に戦死し、沖縄戦の組織的戦闘は終了したが、連隊長北郷格郎大佐の下、数百名の残存する連隊将兵が国吉台(糸満市)の洞窟陣地を堅持し、指揮系統を保って遊撃戦を展開した。

8月15日の日本の降伏宣言を迎えたのち、8月22日、第1大隊長の伊東孝一大尉が米軍の軍使と接触。8月24日、現地の米軍司令部に伊東大尉が軍使として赴き、録音された「8月15日の玉音放送」、日本本土からのニュース音声などを聞き、さらに、投降していた八原博通大佐(第32軍参謀)と会い、「米軍の謀略ではなく、真実である」と確認した。伊東大尉は北郷連隊長に確認結果を報告し、伊東大尉が武装解除の交渉を一任された。歩兵第32連隊は8月28日に軍旗を奉焼、翌29日に武装解除した。この時点での残存将兵は約300名であった。

山形城本丸跡。一文字門。大手橋。

2013年本丸大手門枡形内の高麗門及び土塀が復元され翌年8月から公開が始まった。

山形城は、山形盆地南側、馬見ヶ崎川扇状地の中央やや北寄りに位置する。羽州街道と笹谷峠の合流点に当たり、鎌倉時代まで最上郡の中心として栄えた。

南北朝時代の延文元年(1356年)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し、山形城が築城された。以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、山形城は最上氏本宗家の居城となった。最上義光が、慶長年間に城郭を拡大し三の丸を構築、家臣団の屋敷が置かれた。さらに城下町を整備し、慶長出羽合戦で得た出羽57万石の本城となる。

三の丸の内側の面積は235haもあり、日本国内では5番目の広さで奥羽地方では最大の城であった。しかし江戸時代初期の最上氏時代に57万石あった石高も度重なる藩主交代に伴って石高が削減され、山形藩にとっては、維持することすら困難な状態になった

徳川家譜代の鳥居家や保科家(御家門会津松平家の前身)の時代になると、東北地方における徳川藩屏として君臨し、この時期の所領は20万石前後の中藩になった。だが保科家が会津藩に移封されて幕藩体制が確立すると、山形藩は幕府重職から失脚した幕閣の左遷地となり、親藩・譜代大名の領主が12家にわたって頻繁に入れ替わった。しかもこの時期の所領は6万石、多くても10万石程度の小藩となり、藩政は不安定だった。弘化2年(1845年)遠江国浜松藩より水野家が入部し明治維新を迎えた。水野家は、天保の改革に失敗した水野忠邦が失脚したことによって、子の忠精が山形藩に左遷されたものだった。

山形城は、本丸、二の丸、三の丸が、同心円状に配置された輪郭式平城である。二の丸には5つ、三の丸には11の出入り門が作られた。中世の居館を拡張して城郭とし、本丸は御殿のみで天守は造られなかったが二ノ丸に代用の三重櫓が建てられていた。ただこの三重櫓は元禄期(1688~1704)までに取り壊されている。二の丸は一辺500メートルほどの方形、三の丸は1.5キロメートルから2キロメートルほどの楕円形であった。城の大きさとしては当時の名古屋城に次ぐ広さを誇っていた。本丸には御殿、二の丸には藩の政庁と御三階櫓が、三の丸には534人の上級、中級の最上家家臣の屋敷、城外には1,326人の家臣の屋敷と寺院が町方を取り囲むように置かれた。

元和8年(1622年)に最上氏が改易された後、鳥居忠政により改修がなされた。鳥居氏以後もたびたび藩主家の変更があったが、格式・規模が次第に低下したため、江戸中期以降は城の維持が困難になった。幕末には御殿は二の丸に置かれ、本丸は更地で、三の丸の西半分は田畑になっていた。

本丸一文字櫓・門跡。

本丸跡内部。

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