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山形県米沢市 舘山城跡 熊と伊達政宗に会える城

2024年09月21日 08時42分47秒 | 山形県

国史跡・舘山(たてやま)城跡。山形県米沢市口田沢。登城口は米沢市館山字橋向南。

2024年9月6日(金)。

舘山城跡(たてやまじょうあと)伊達氏の米沢時代の本城で、伊達政宗が生まれたとされる。会津若松・喜多方方面から来ると、一番近い見学予定地となる。事前にグーグルマップのクチコミで情報確認することにしているのだが、気になったのは最近クマを山の上で見たという記事だった。今回の100か所近い見学予定地の中でもクマ出没情報はここだけだった。早朝と夕方は危ないので、先に小野川温泉に入浴してから見学することにした。東北に多い熊注意看板はなかったが、熊鈴をウエストバッグに付けて歩くたびに鳴るようにして10時頃、東館登城口から山上に向かった。

10分弱で中央南端虎口に着き、右側の腰曲輪から米沢盆地を見下ろした。

左方向へ歩いてすぐの曲輪Ⅰ(主郭・本丸)の表示を写真に撮り、腰曲輪方向を眺めると、黒くて大きな獣が左から右の虎口方向へゆっくりと歩く姿が見えた。犬よりは大きく真っ黒なのでクマとすぐに気づいた。こちらに向かって来るのかと、固唾を飲んで見ていると、ゆっくりと虎口方向へ進んでいき、10秒余りで視界から消えた。

こちらも後ずさりしながら曲輪Ⅱに通じる北西桝形虎口近くの高台に避難した。これ以上見学する気はなくなったが、下山するためには南端虎口から登城道を下らねばならず、クマと遭遇することになりかねない。

そこで、エスケープルートを確保してもらおうと10時19分に米沢警察署に電話した。待っていると10時30分過ぎに近くでパトカーが「この周辺にクマが出没しました」と拡声器による音声注意をした。しかし、山上に助けにきてくれる気配はなかったので、10時52分に米沢警察署へ再度電話すると、まだ下山していなかったのかと言われたので、下山道にクマが潜んでいる可能性があると説明すると、近くの派出所からパトカーを手配してくれた。11時5分にそのパトカーから確認の電話があり、11時18分に麓の登城口付近に着いたパトカーから電話があり、下で爆竹を鳴らすから降りてきてほしい、と言われた。

爆竹が鳴り響いたので、恐る恐る虎口周辺にクマがいないことを確かめて下山した。1時間以上経過しているのでクマもどこか餌場に行ったのだろう。

パトカーに付いて車に乗り近くの空き地で事情聴取を受けた。クマの体長を尋ねられて、1m50㎝ぐらいと答えると、1m20㎝ぐらいに訂正させられた。「秋田県には人食いグマがいるが、山形県にはいない」と警官が言った。それは知っているが、爪で顔面をかきむしられることはありうる。おそらく、オスの成獣1頭だったので、クマも余裕があったのだろう。しかし、舘山城跡本丸付近を移動経路として利用しているクマは確実にいる。

1時間以上も時間を無駄にして昼近くになってしまったので、米沢牛弁当を食べることにして予定ルートを外れて米沢駅の松川弁当店へ向かった。

初めに戻る。舘山城跡見学のため小野川温泉から米沢市街地方向に向かったが、記憶と違うし、発電所も城跡もナビにもないので、迷った。仕方なくグーグルマップで確認して、川を渡ると、ガレージ会館があり、説明版もあった

車を降りると、ガレージの鉄板を上げて内部の展示が見られると分かった。

ここに登城マップが置いてあったので入手。

先に進むと、発電施設がはっきりと現れた。山城跡の東端には大正9年(1920年)に水力発電所が建設され、現在も東北電力の管理で現役稼動し、同施設は近代産業遺産としての評価を受けている。

駐車スペースは、伊達政宗が生まれたという「東館」一帯である。

山裾を進むと、すぐに登城口があり、小屋には登城マップと飲料水・カップがあり、水を飲むと美味かった

中央南側虎口。比高は50mほどなので、登城道を登ると休み休みでも10分もかからず虎口に着いた。

 

舘山城跡(たてやまじょうあと)は、米沢盆地西縁の丘陵地の東端、小樽川と大樽川の合流地点付近の標高310~330mの城山と呼ばれる丘陵先端に立地する山城と山麓部の館跡からなる。元禄元年(1688)頃から仙台藩主伊達家の正史として編纂が始まった『伊達治家記録(だてじか(け)きろく)』にみえる舘山城に比定されている。

米沢市中心部の米沢城址からは約4km西の台地上に位置する。

伊達氏は鎌倉時代以来、梁川城(福島県伊達市)を約300年間本拠とし、年代に異説があるが至徳2年(1385年)に長井氏を滅ぼして置賜郡(長井郡、長井荘とも別称)を領有した。16世紀に入り、伊達稙宗が天文元年(1532年)桑折西山城(福島県桑折町)へ居城を移し、更に伊達晴宗により天文17年(1548年)米沢城に移ったとされる。そして、伊達政宗が天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命で岩出山城(宮城県大崎市)に居城を移した後、慶長5年(1601年)仙台城を築城して仙台藩が成立した。置賜郡は蒲生氏を経て上杉氏(関ケ原以前は家老の直江氏)の所領となった。

この伊達氏の「米沢城」は、江戸時代に米沢藩上杉氏の居城となった現在の米沢城と同じものとされてきた。

伊達氏の諸記録によれば、天正12年(1584年)に伊達輝宗が館山城を隠居所としたが、居館の普請が終わるまでの間は重臣鮎貝宗重館に身を寄せて、翌年の完成を待って居住したという。また、天正15年(1587年)には政宗が改修を開始、しかし岩出山城への転封で廃城となった。館山は現在も、米沢から会津へ向かう街道の入り口にある。

『伊達治家記録』などによれば、「米沢城」には懸崖造りの物見台があったというが、平地にある現在の米沢城周辺では該当する地形が存在しない。

本格的発掘調査は平成13年(2001年)からであるが、大規模な縄張りと家臣団屋敷跡などと見られる遺構が発見され、伊達氏時代の「米沢城」とは館山城ではなかったかとの説が有力視されるようになった。城跡は大樽川と小樽川が合流する小丘陵と麓の平地に、約34haの面積で広がっている。

館山城北館の調査では、整然と配置された中世の屋敷跡が発掘され、比較的長期間に渡って存在したことがわかった。出土品から、晴宗から政宗の年代にあたると推定されている。東館の調査では庭園跡と見られる遺構や石敷があり、高位の人物の居住跡と考えられ、中国産陶磁器などが出土した。2014年に主郭虎口付近から残存石垣が出土して伊達時代のものと注目を集めたが、この石垣に関しては、積み方から上杉時代に積まれたものと考えられるようになった。

舘山城は、元亀元年(1570)に伊達家の家臣である新田四郎義直の居城として『伊達治家記録』に現れ、天正12年(1584)には、伊達輝宗が自身の隠居所を舘山で普請し、翌天正13年に完成したとある。また、天正15年には伊達政宗が地割・普請したとされ、天正19年(1591)の豊臣秀吉による奥羽仕置で、政宗が岩出山へ移るまで米沢城とともに伊達氏の中心的な城のひとつであったと考えられている。伊達氏が米沢を統治していた頃の史料である『伊達天正日記』や天正18年2月22日付けの「片倉藤ゑもん宛金掘宛行状(あてがいじょう)案」には、舘山に「たて山御たて(舘山御館)」と「要害」の2つがみえる。

山城は土塁や堀切で区画された3つの曲輪から成り、丘陵先端部の曲輪Ⅰから西端の曲輪Ⅲ西端にある堀切まで、山城の全長は約320mである。周囲の山城が街道を見下ろす高所に位置するなど防御的な側面が強いのに対し、舘山城は比高差の小さい丘陵上にあり、山麓部に数カ所の居館跡を伴うなど、周辺部の城跡とは立地や構造が異なっている。

また、米沢市教育委員会の発掘調査の結果、この城は伊達家が治世にあたった16世紀代と上杉家の米沢入封直後の17世紀前半の遺構があることが判明し、山城は上杉家による改変が加えられていることも分かった。

曲輪Ⅰは東西約120m、南北約70mの規模で、北側と西側に土塁を有し、中央南端と北西側に虎口が認められる。中央南端の虎口は山麓部にある館山東館からの登城路に連結している。北西側の虎口は、平成25年度に行った発掘調査の結果、その構造から慶長年間(1598~1615)後半以降のものと考えられる石垣が検出された。また、西側の土塁は石垣を有していたことが確認されており、北西側の虎口の造営と一体的に造られたことが分かる。これらの造営は、時期からして上杉景勝の命により行われたと考えられるが、通路に石貼りの痕跡が認められないこと、石垣が多量の栗石により埋没していたことなどから、未完成のまま破城が行われたと考えられる。

曲輪Ⅱは、東西約60m、南北約70mの方形の曲輪であり、北側、南側、西側に土塁を有し、北西部に虎口が認められる。西側の土塁は最も規模が大きく、長さ約88m、最大幅26.7m、高さ約5mで、土塁西側の堀切り底との比高差は最大で10mを超える。曲輪Ⅰとの間には、長さ約61m、幅4.5~7.1m、深さ0.6~1.2mの堀切がある。この堀切は曲輪Ⅰ北西側の虎口普請以前は、上幅12.9~13.1m、深さ2.7~3.5m以上の規模であり、北斜面に見られる竪堀と連結していたと考えられる。また、この堀切からは16世紀前半から末頃の遺物が出土しており、埋土の状況や曲輪Ⅰの西側土塁との関係から、上杉家による造営に伴い埋められたと考えられる。

曲輪Ⅲは東西幅約17m、南北幅約56mで、周囲を堀で囲み、西側には土塁を有する。曲輪の北西部分には土橋が認められ、寺院があったと伝承されている西側の平坦地と連結している。また、西側の土塁の南端部には、物見台の可能性がある長軸約16m、短軸約10mの方形の高まりがある。

 

山麓部の居館は山城との位置関係から、舘山東館、舘山北館、舘山南館と呼んでおり、そのうち舘山東館、舘山北館で行われた米沢市教育委員会による発掘調査で16世紀代の遺構が検出されている。舘山東館では、掘立柱建物や庭園の可能性のある池状遺構、井戸跡等が検出され、舘山北館では、16世紀代を中心とする複数の掘立柱建物が検出されている。これらの遺構は、数時期の変遷が確認される。出土遺物には、土師器内耳鍋や擂鉢、国産陶器などがある。

舘山城跡は、伊達家が版図を拡大した天正15~19年にかけて政治的・軍事的な拠点となった城館のひとつであるとともに、山城と同時期の山麓居館跡が良好な状態で残っている。陸奥国南部の有力大名の城館の構造だけでなく、中世社会の動向を知る上で重要な城跡である。また、上杉家による造営が行われていることも確認されており、中世の山城が近世城郭へと改変される状況を知ることもできる。

山形県米沢市 小野川温泉共同浴場尼湯 山形県車中泊旅行第一番札所



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