化野(あだしの)念仏寺の千灯供養。京都市右京区嵯峨鳥居本化野町。
2024年8月24日(土)。
化野念仏寺は、化野地区に葬られた人々の霊を祀る供養の地で、千灯供養は、境内8000体の石仏・石塔群にローソクの灯がともる夏の嵯峨野の風物詩である。
名古屋から京都は近いので日帰り観光が基本になる。1960年代の小学校の修学旅行はさておき、1979年に交通公社(JTB)のポケットガイド「京都」を購入してからは、1980年代には年に10回近く寺社や博物館・美術館に通ったので、ほとんどの観光地には行っている。90年代以降は、ほとんど行かなくなったが、常照皇寺、城南宮、化野念仏寺に行っていないことが気がかりだった。化野念仏寺は千灯供養を見ないと意味がないが、当時は8月23日24日の固定で、ハガキによる予約が必要なのでなかなか実現できなかった。
2021年4月に常照皇寺の桜、2022年10月に城南宮を見学して、残るのは化野念仏寺だけになった。2021年ごろから、化野念仏寺の千灯供養をチェックしたが、コロナで中止になっていた。2023年に復活したが、安い行き方の検討をするだけで結論ができなかった。19時まで滞在するとして、交通はバスはあるが本数は少ない、ユースホステルに泊まるか、マイカーで行って市内の障害者用無料駐車場に駐車して、イベント後は道の駅で泊まるか、とか考えあぐねてきた。費用に糸目をつけなければどういう贅沢な手段でも可能であるが、安く仕上げるのが知的エンタメの醍醐味であるのだ。
結局は、いつものようにJR東海道線の快速を使うことにした。JR大曽根駅9時9分発、名古屋駅9時31分発、米原10時50分発、京都11時57分発で嵯峨嵐山駅12時13分着である。帰りは嵯峨嵐山駅19時37分発で乗り継げば大曾根駅に22時39分着である。
嵯峨嵐山駅から化野の往復は徒歩のみ。バスは使いづらい。数か月前に村上隆展も面白いとは思っていたが、余分な歩きは身体に負担が多い。昼着で充分。その代わり、テレビでよく見る、嵐山の竹林、野宮神社、障害者無料の二尊院と祇王寺、嵯峨鳥居本町並み保存館を見学することにしたのが、水曜日ごろ。
化野念仏寺の千灯供養は8月下旬の最終土日曜日、17時30分から受付、18時開場。千灯供養の予約制は廃止されている。
水曜日ごろから京都周辺もゲリラ豪雨の可能性が出てきた。木曜日に天気予報を見ていると、土曜日も日曜日も危なそうだったので、今年は諦める気分になって携帯食の購入もしなかったが、金曜日の夜に天気予報を見ると、土曜日は大丈夫そうだったので、今年諦めたら翌年行けるかどうか怪しいと思い、急遽行くことにした。
8月24日(土)朝は7時前に起きられたので、いよいよ気持ちにゴーサインが出た。駅前のコンビニで弁当は半額、おにぎりは2割引きがあったのも幸運の印であった。大曽根駅の「みどりの窓口」で障害手帳を見せ、運賃半額の往復3080円で購入。片道だと1540円と安い。今知ったが、名古屋駅発だと1320円。青春18キップという手もあるなと、あとで気づいたが、金券ショップでも1回分だと3000円ほどだろうし、行くかどうか決めていなかったので仕方がない。「みどりの窓口」は激込み問題が発生しているので、急いでかけつけたが、先客が一人いて終わるところだった。購入後に見ると6人ほど並んでいた。
JR乗車後は空いていたせいか座りっぱなし。京都駅乗車後に車内で弁当を食べた。周囲の半分は欧米人客だった。定刻通りに嵯峨嵐山駅へ到着。以降は真夏の太陽に汗だくになった。17時頃から雷の音がしだしたが、雨雲レーダーを見ていると、数キロの違いで化野念仏寺周辺は降雨なしが続いた。
帰りはJR東海道線がゲリラ豪雨に見舞われて、運転見合わせが続き、名古屋駅到着が翌日の4時50分になった。18時30分に化野念仏寺を出て、グーグルマップの経路を見続けて嵯峨嵐山駅に19時5分頃に到着した。19時19分京都行に乗車。20時1分発長浜行き快速に乗車。雨が降ってきた彦根手前で、琵琶湖線が車両故障により運転見合わせの放送。米原駅で運転打ち切りになった。長浜方面の利用客はどうなるのか気になったが、すぐに自分もその境遇になるとは思わなかった。
米原21時7分浜松行き快速は定刻通り出発。柏原の手前で停車。柏原・大垣間が雷と豪雨で運転見合わせと放送。10分ほどで柏原駅に21時30分ごろ到着。待っている間に、雨雲レーダーを見て小降りになったから運転すればいいのにと思った。名古屋駅に23時30分ごろに着けば自宅まで乗り継げるのだが、と思っていると、1時間ほど経って大垣・名古屋間も運転見合わせになった。伊吹山方向を見ると、雷が横方向に走っていた。昔、松本深志高校の山岳部が北アルプスで多数落雷死したのも、横に雷が走ってきたためらしい。23時30分から大垣駅まで運転再開と放送。前に列車が詰まっていたらと思ったら、やはり実際には20分ほど待たされた。24時過ぎに大垣駅到着。車掌は柏原駅から何度も巡回していたので、名古屋駅で列車ホテルでも用意してくれるのか聴こうとしたが、その必要もなくなった。この列車自体が列車ホテルになったのだ。幸い、乗客は少なく、4人席を一人で使えた。ただし冷房は寒い。こういうこともあろうかと、登山用の耐寒保温できるTシャツに着替えてきたので何とか耐えられた。
運転計画の案内があり、浜松行き快速が豊橋行き各駅停車に変更された。2時30分ごろに運転再開という。なるべく遅く名古屋に着いてもらったほうが、列車ホテルとしてはありがたい。実際には出発は3時30分ごろになり、4時50分に名古屋駅に着いた。ベンチを見つけて、5時40分の中央線多治見行を待ち、6時15分ごろに帰宅した。
化野念仏寺。参道入口。
参道入口は目立つ。15時ごろに通りかかったが、この先にある16時閉館の嵯峨鳥居本町並み保存館と鮎茶屋の平野屋を見学しようといったん通過した。
嵯峨鳥居本町並み保存館。京都市右京区嵯峨鳥居本仙翁町。
入場は無料。重伝建・嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区の北端にあり、鳥居本に到着する直前にある。保存館は、明治時代初期にこの地に建てられた民家を見学できるように修理や整備をしたもので、虫籠窓や大屋根の煙り出しなどに奥嵯峨の伝統を残している。
鮎茶屋の平野屋。模型。
昭和初期の愛宕街道の町並みを精密に復元した模型も展示されている。戦前期に愛宕山鉄道という複線の電車が走っていたが、金属供出により廃線となり、廃線路はバス路線になっている。
おくどさん。宝珠の飾りが珍しい。
外人客がいなかったので、少ないのかと尋ねると、通常は9割が外人客だという。平野屋の先の愛宕念仏寺(千手せんじゅ)が外人客に人気があると教えられたので、鮎茶屋の平野屋を経て見学することにした。
鮎茶屋の鳥居本・平野屋。
愛宕(おたぎ)念仏寺。京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町。
平野屋から坂道を5分ほど登り、バス道路と出会う位置に来ると、外人数十人が密集していた。拝観料400円だったが、受付で障害者割引を尋ねると、無料だった。合掌。
天台宗の寺院で、本尊は厄除千手観音。別名千二百羅漢の寺。愛宕山愛宕神社参道の山麓の入り口に位置する「嵯峨野めぐりの始発点」として知られる。
天平神護2年(766年)、称徳天皇により今の京都・東山松原通の地、六波羅蜜寺の近くに愛宕寺として創建された。寺名の由来は山城国愛宕郡に初めて建てられた寺院だからだという。
平安時代初め、醍醐天皇の時代、すでに荒れ寺となっていたところ、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失、廃寺となってしまった。その後、醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興した。念仏上人と呼ばれていた千観が当寺で念仏を唱えていたことから、当寺はその名を愛宕念仏寺と改め、天台宗に属した。その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなった。
1922年(大正11年)、本堂の保存のために現在地に移築・移転し、復興を図る。しかし、太平洋戦争中に無住となり、1950年(昭和25年)のジェーン台風で当寺は大きな被害を受けて荒れ果ててしまい、ついに廃寺となった。
1955年、仏師で僧侶の西村公朝が天台宗本山延暦寺から当寺の再興を命じられ、住職に任じられた。清水寺貫主・大西良慶の「それだけ傷んでおれば、草一本むしりとっても、石一つ動かしても、おまえは復興者、復興者やといってもらえる。わしも手伝ってやるから」との激励を受け、復興に取りかかった。
1980年(昭和55年)、10年がかりの仁王門の解体修理が始められた他、本格的に境内の復興に着手している。1981年からは一般の素人の参拝者が自ら羅漢像を彫って奉納する「昭和の羅漢彫り」が始められた。当初は500体が目標だったが、10年後には1,200体に達した。
石像千二百羅漢像。
化野念仏寺の千仏にあやかったものだろう。
三宝の鐘。
本堂(重要文化財) 。 鎌倉時代中期再建。本尊の千手観音が祀られている。
石像千二百羅漢像の裏側には制作者の名前が書かれている。
仁王門を見下ろす。外人がひっきりなしにやってくる。
化野念仏寺に戻る。
化野念仏寺。
参道入口に戻ると16時だった。千灯供養のときだけ入るつもりだったが、受付の様子を確認しようと受付に行くと、千灯供養は1000円だが、拝観は障害者無料と教えられたので、内部の様子を見ることにした。
化野(あだしの)は古くから鳥辺野などと並ぶ葬送の地や追悼の地としての役割を果たしており、この地区の名前は、はかなさを意味している。
化野念仏寺は浄土宗の寺院である。風葬されていた野ざらしの遺骸を弘法大師空海が埋葬し人々の霊を祀るため、五智山如来寺を建立したのがはじまりとされる。
その後、浄土宗の開祖である法然は、この寺院を、念仏と呼ばれる祈願の形式を修行する念仏道場へと転換させた。念仏とは、極楽浄土へ生まれ変われるよう阿弥陀如来の名前を唱えるものである。
右側が西院の河原。
西院の河原。内部では撮影禁止となっている。
あだし野念仏寺の最も注目すべき特徴の1つは、何世紀にもわたってこのエリアに葬られた人々の約8000の石仏・石塔を保存するための専用の空間である西院の河原で、境内から出土した多くの石仏・石塔を明治時代中頃に一カ所に集め、それらを供養するための浄土が形づくられた。
16時30分ごろ外に出て、どこかで座って待とうと道を下ったが、痙攣しそうになったので、人形の館前の石に座った。17時ごろになると化野念仏寺方向へ向かう人が多くなったので、あわてて化野念仏寺に戻ると10人ほどが石段脇の石に座って順番を作っていた。半分近くが外人である。
17時30分になると門があき、受付で1000円払うとローソクと説明をもらった。さきほど寺自体は拝観しているので本堂へ行かず、西院の河原方向へ進むと、地蔵堂北側のロープ横に係員がいて、ここに並んでくださいと言われ、今度は私が列の先頭になった。
18時からは、導師一群の入場があり、地蔵堂で仏事ののち、西院の河原を回った。18時15分ごろから一般参拝が始まった。
幽玄な千灯供養。
約8000体の石塔・石仏に灯明を捧げるこの行事は、参拝者によって点火され、幻想的な世界が演出される。
18時30分ごろに寺を出た。