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立教大学池袋キャンパス・第一食堂・立教学院展示館 学士会館 矢口書店

2024年11月25日 12時06分49秒 | 東京都

立教大学池袋キャンパス。東京都豊島区西池袋。

2024年10月28日(月)。

東洋文庫ミュージアム最寄り駅の駒込から池袋へ移動。立教大学へは初めて行く。地下道を出て立教通りを歩くと、キャンパスの案内図があり、少し進むと入口があった。目論見通り11時30分頃に着いたので、予定通り第一食堂に向かった。今年9月に山形聖ペテロ教会を見学したが、設計を指導したガーディナーが立教関係の建物を多数設計していたことに気づき、日本聖公会の学園である立教を見学しようと思っていた。

 

立教学院は、英国国教会と米国聖公会を母体として成立した学校法人で、英国の伝統的なパブリックスクールと中世ヨーロッパ以来のリベラル・アーツ教育の伝統を受け継いだ日本聖公会系のキリスト教主義学校(ミッションスクール)である。

1859年に初代米国総領事タウンゼント・ハリス(聖公会信徒)の支援によって、プロテスタント初の宣教師、米国聖公会のジョン・リギンズが江戸幕府・岡部駿河守長常の要請から長崎・崇福寺に、チャニング・ウィリアムズとともに英学教育を創始したことを起源とする。1874年、ウィリアムズは東京・築地で私塾「立教学校」を開設し、現在の立教小、中、高、大各学校へと歴史を繋いでいる。

1880年、ジェームズ・ガーディナーが来日し立教学校の校長に就任1883年、築地外国人居留地37番に立教大学校(教育令による旧制大学)を設立し、校長にゴシック風レンガ校舎を設計したガーディナーが就任した。1896年、立教尋常中学校を設置。1918年、池袋へ移転。本館、図書館、寄宿舎(現2号館、3号館)、食堂竣工。1922年、大学令による立教大学を設立。1923年、関東大震災により築地キャンパスは壊滅し、立教中学校は池袋へ移転した。

本館(1号館 / モリス館)。

立教大学本館は 1918 年(大正 7 年)に大学が築地から池袋へ移転した際に建設された建物で、米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリス氏の寄付により竣工したことにより、「モリス館」とも呼ばれる立教大学のシンボル校舎である。設計はマフィー・アンド・ダナ・アーキテクツ、施工は清水組である。

本館は、シンボルゾーンと呼ばれる煉瓦造建造物の正門から伸びる直線軸の中心に位置しており、「煉瓦とツタの立教大学」を象徴する建物である。本建物はチューダーゴシック様式をとっており、扁平アーチ(チューダーアーチ)の意匠を特徴としている。

地下1階、地上2階建てで、平面形は短辺方向約 10m、長辺方向約 76mの長方形である。1階中央部にキャンパスの主要通路が貫通(中央アーケード)しており、その上部に時計を配した塔屋が存在する。主要構造は煉瓦造と鉄筋コンクリート造であり、床および臥梁が鉄筋コンクリート造、壁が煉瓦造(フレミッシュ積)の構成になっている。

築地から池袋への移転を決めた立教大学は、本格的な校舎の建設を構想した。米国聖公会の強い意向で、その建築の設計に白羽の矢が立ったのが、マーフィーとダナという2人の建築家が共同で経営する建築事務所で、彼らはニューヨークに拠点を構え、新進気鋭の建築家として、主に米国東海岸で活躍していた。2人は立教のキャンパス建築を当時アメリカで流行していたカレッジ・ゴシック様式でまとめた。その中心となる本館も時計台下通路の尖ったアーチなどに、ゴシックの特徴を見ることができる。

移転 5 年後の 1923 年(大正 12 年)の関東大震災により中央部塔の崩落、東西面の亀裂の発生などの大きな被害を受け、屋根を切妻から入母屋に変更するなどの改造をしたが、1919年の落成以来、現在も教室として使われている。

中央時計台の時計はイギリス・デント社製で、直径90cm。動力は分銅式で、3~4日に一度、手で巻かれている。

第一食堂。

1919年、本館、チャペル、図書館(現・メーザーライブラリー記念館)、寄宿舎東寮(現2号館)、寄宿舎西寮(現3号館)とともに食堂として建設された。

第一食堂は、レンガ造りの外観や漆喰をまとった壁面など美しい雰囲気をもつ学生食堂である。入口のドアの上にはラテン語で"食欲は理性に従うべし"と書かれている。これは哲学者キケロの「欲望は理性に従うべし」という言葉をもじったものである。

カツ丼410円。味噌汁(大)50円。合計460円。学生だけでなく一般も利用できる。12時近くになると学生たちが増えてきたが、それまでは客は少なかった。

メーザーライブラリー記念館(立教学院展示館)。

2階に展示館があるメーザーライブラリー記念館は、本館やチャペルなどの池袋キャンパスのシンボルゾーンを形成するレンガ建造物群の一つで、1919年の落成から2012年まで、図書館本館として使用された。米国聖公会の総会代議員として長年外国伝道を後援してきたサミュエル・リビングストン・メーザー氏の子息であるサミュエル・メーザー氏からの寄付により建てられたことから、現在はメーザーライブラリー記念館と名称を変えている。

立教学院展示館は、立教の歴史と伝統、教育と研究の取り組みを発信する場として、2014年に開館した。

渋谷駅。ハチ公広場。

立教大学を見学後、池袋駅東口にある宮城県の観光案内所を訪れてパンフレット類を入手した。

西郷山公園へ行くつもりで渋谷駅で下車したが、疲れてしまったので、ハチ公像の前で行列を作り記念写真を撮るインバウンド客を笑いながら眺めていた。それでも疲れが取れなかったので、古本まつりが開催されている神保町へ向かうため、御茶ノ水駅へ向かった。

学士会館。千代田区神田錦町。

国登録有形文化財。1928(昭和3)年竣工。鉄骨鉄筋コンクリート造地上5階地下1階建・

設計は、佐野利器(構造)・高橋貞太郎(意匠)・藤村朗(増築部分)。

佐野 利器(さの としかた、1880~1956年)は、建築構造学者で、東京帝国大学教授、日本大学教授、清水組副社長を歴任した。芸術としての建築より、工学としての建築、とくに耐震工学に重きを置き、日本の構造学の発展に貢献した。山形県西置賜郡白鷹町生まれ。米沢中学、旧制二高を経て東京帝国大学建築学科で、建築学を辰野金吾に学んだ。

関与した作品に、旧岐阜県庁舎(1924年)、神奈川県庁舎(1927年)、学士会館(1928年)、旧徳島県庁舎(1930年)などがある。

「我が国の大学発祥地(東京大学発祥の地)」。

地下鉄神保町駅A9番出口すぐ南に「学士会館」があり、この建物正面玄関の前に前に「東京大学発祥の地」の石碑が建っている。

五代将軍綱吉は、現在の神田錦町、一ツ橋一帯に広大な密教の大寺院「筑波山護持院元禄寺」を建立した。護持院が享保2年(1717)正月の大火で焼失した跡地が「火除地」となり、護持院ケ原と呼ばれた。この広大な空き地は将軍の猟場として使用されていたが、一般にも解放され庶民の憩いの場になっていた。

その護持院ケ原に文久2年(1862)蕃書調所が洋学調所と改称して当地に移り、翌3年開成所と改め、明治2年(1869)大学南校となった。さらに6年開成学校、7年東京開成学校と改め、明治10年神田和泉町から本郷元富士町に移転していた 東京医学校が合併し, 東京大学が創立された。 

明治初頭、護持院ケ原は、東京大学のほか東京外国語大学、学習院、一橋大学の発祥の地になっている。後に、こうした学生を相手に書店ができ、世界に類のない神保町書店街が形成された。また、それに関わる出版、印刷、製本業発展する一方、私立大学の集積も進み教育・文化の中心地となった。

旧館玄関。

学士会館の休憩室は自由に利用でき、談笑する人や備え付けの新聞を読んでいる人もいる。

矢口書店。千代田区神田神保町。

1928(昭和3)年竣工の木造モルタル造3階建。

レトロな看板建築の代表作品で、テレビドラマのロケに使用されているという。看板建築は正面しか写真で見たことがなかったが、角地にあるのでアールデコ装飾風の側面も見ることができた。

 

翌日は、東京国立博物館の埴輪展と東京都美術館の田中一村展を鑑賞した。

東京都駒込 東洋文庫ミュージアム企画展「知の大冒険—東洋文庫 名品の煌めき—」 



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