いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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60年代の名曲 モンキーズ「デイドリーム ビリーバー」

2023年09月25日 10時15分01秒 | 音楽

モンキーズ 「デイドリーム ビリーバー」

モンキーズは、古き良きアメリカの時代最後のポップスバンドだった。楽曲を提供したのが、ニール・ダイアモンド、ジェリー・ゴフィン&キャロル・キングという手練れのヒットメーカーたちだったからだ。

洋楽を真剣に聴きだして、最初にシングルレコードを購入したのが、ビートルズとモンキーズだった。

1968年になると、クリーム、ジミー・ヘンドリックスのアート・ロック、ジェファーソン・エアプレインなどのサイケデリック・ロックなどの波にもまれて、モンキーズのテーマをパクッて歌っていたタイガースなどのGSもろともモンキーズも消えてしまった。しかし、それなりに、ポップ史上に輝く名作群を残したバンドとして評価したい。

The Monkees  Last Train to Clarksville

モンキーズは1966年8月にデビュー曲「恋の終列車 (Last Train to Clarksville)」をリリースして、日本でもヒットした。その半年あとぐらいに、日本語の無名歌手による吹き替え版ソノシートを購入した。

1967年初めにヒットした「アイム・ア・ビリーヴァーI'm A Believer」はニール・ダイアモンドの楽曲だったのだが、ラジオで結構流れていた。この曲もモンキーズを特徴づける名曲で、前奏のキーボードのリフはおしゃれなポップ感があり、新しい時代を感じさせた。

シングルを最初に購入したのが、1967年夏の『恋はちょっぴり/どこかで知った娘』A Little Bit Me,A Little Bit You  (US #2/UK #3) / The Girl I Knew Somewhere (US #39)。

「恋はちょっぴり」はニール・ダイアモンドの楽曲で普通の曲。

何度も聞き返して感心したのが、The Girl I Knew Somewhereでメンバーのマイク・ネスミスMike Nesmithの楽曲。単純だが新鮮な曲調なでこの男はただものでないと悟った。モンキーズ解散後にファースト・ナショナル・バンドというカントリーロックバンドを結成したところまでは音楽雑誌で読んでいたが、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドNitty Gritty Dirt BandのSome of Shelley's Bluesを聴いたときに、ネスミスの曲だと知って驚いた。本人よりNGDBのバージョンがいいのだが、この1曲でもネスミスは歴史に残る。

1967年夏から秋の『プレザント・バレー・サンディ/恋の合言葉』Pleasant Valley Sunday (US #3 /UK #11) / Words (US #11)。両面A面の扱いだったようだが、当時からPleasant Valley Sundayはやはり口ずさんで飽きることのない名曲だった。ジェリー・ゴフィン&キャロル・キングが夫婦だったころ、住んでいた町を題材に作った歌という。郊外に住むよきアメリカ人たちを歌っているように思っていたが、ネスミスは精神病院を歌ったものだと語っている。

Carole King - Pleasant Valley Sunday (1966 Demo)

当時、テレビで「モンキーズ・ショー」を放送していて、たまに見ていたが、面白いと思うことはなかった。

 

1967年冬に発売されたのが、Daydream Believerで、当時からモンキーズでの最高作と誰もが認める曲だった。

忌野清志郎らのロックバンド、タイマーズが1989年に日本語バージョンを発売したときには、忌野清志郎も名曲と思っていたんだな、と感慨にふけったが、やはり本物には敵わないなと思った。


70年代の名曲 ボストン「More Than A Feeling」

2023年09月24日 09時43分26秒 | 音楽

BOSTON More Than A Feeling 宇宙の彼方へ    SONG TO  SOUL

当時アメリカン・プログレ・ハードロックと呼ばれたバンド・ボストンが、1976年にリリースしたデビュー・アルバム『幻想飛行』のA面1曲目でシングルカットされた「宇宙の彼方へ」

ボストンはトム・ショルツのほぼソロ・プロジェクトだった。ボーカル以外はほとんどすべての楽器をショルツ自身が演奏し、バンドのメンバーはライブを行うために集められた。レコード会社から「現在あるすべてのレコードの中で、最も素晴らしいサウンド」と評価された。

 

「SONG TO  SOUL」はBS-TBSの番組で、できるだけ見るようにしているが、見落としてしまうことが多い。再放送を何度もしてくれて、3回目ぐらいの再放送が1か月ほど前にあって録画しておいた。数年前にも、同じボストンの番組を見て、感銘を受けていた。バン・ヘイレンの「ジャンプ」編も興味深かった。

 

ボストンについては、1970年代後半には、More Than A Feelingは知っており、名曲だと思っていたが、有名な寡作バンドのため、ラジオではめったに聞く機会も録音する機会はなかった。

2000年代初めになって、マイカーでCDを聴くようになって、ドライブ用にCDに楽曲を落とそうとして、思い出したのがボストンで、CDをレンタルして、気に入ったMore Than A Feeling 、Peace of Mind、Hitch a Ride、Something About You、Don't Look Back、AmandaをCDに焼いた。Don't Look BackとAmandaはリアルタイムで聴いた曲。

アメリカン・ロックの頂点といえる美しい楽曲群は、70年代半ばの不毛なディスコブームを抜け出して、80年代ロックの成果に繋げてくれたといえる。

 

トム・ショルツマサチューセッツ工科大学のマスター課程を首席で卒業した頭脳を持つ。白い歯を丸出しにしてインタビューで話す姿には、純粋な少年の魂を持ち続けたロックおたく、音楽オタクの好青年という印象で好感がもてた。

子供のころは、クラシック音楽、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ラフマニノフを聴いて育った。ポップスはキンクスを聴いてから、ヤードバーズ、アニマルズでロックに興味をもった、ギターはジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリン)、ジェフ・ベックを聴いてからで、21歳でギターを始めた。クラシック音楽とロックを組み合わせて作曲した。

 

More Than A Feelingのメリーアンとは、ガールフレンドではなく、ショルツが8・9歳のころのずっと年上の従姉。一番きれいで、ひそかに恋をしていたと白い歯を出して笑った。

More Than A Feelingはフェードで始まりクレッシェンドしていって、曲の最後にクライマックスに達し、靜かにフェードする。白昼夢の見事までの音楽的表現、かつて知っていた女性を詠ったノスタルジックな歌詞。

1976年夏の終わりに発売されたデビューアルバム『幻想飛行』はトム・ショルツの多重録音によるハードで壮大なサウンド・スケープとポップなメロディ、美しいコーラス・ワークが心に響く。

 

ポップなロック・サウンドだったため、ジャーニー、TOTO、スティックスらとともに、産業ロックと批判を浴びたらしいが、よく知らない。「音楽にはいい音楽と悪い音楽しかない」それだけのことなのに、音楽を本当には楽しめないニセ専門家が批評しているらしい。

2014年、35年ぶりの来日公演を開催。見てはいないが、話題になったのは覚えている。

2007年3月9日、リードボーカルを務めるオリジナルメンバー ブラッド・デルプが急死したニュースは覚えている。

レッド・ツェッペリンのフォロワーズとされている。


70年代の名曲 ドゥービー・ブラザーズ「ホワット・ア・フール・ビリーブス」

2023年09月22日 09時38分24秒 | 音楽

ドゥービー・ブラザーズ「ホワット・ア・フール・ビリーブス」Doobie Brothers - What a fool believes

さきほどテレビを見ていたら、キムタクのカローラフィールダーのCMでこの曲が使われていた。知らない人も多いだろう。検索すれば、歌詞や和訳が紹介されている。2010年ごろに調べたときよりも和訳は充実してきて、曲の意味も明確になってきた。

この曲は名曲だ。このバージョンが2009年にyou tubeにアップされてから、すぐにお気に入り登録して、気分転換に聴く曲にしている。何回聴いても聴き飽きない

この曲はyou tubeで多くのバージョンがあるが、1979年のこのバージョンが一番最適だ。曲の速度が適度にゆったりしている。マイケル・マクドナルドも後年になると、ボーカルの核心であるファルセットが満足にできなくなっている。

1979年の来日時はこのメンバーでのライブを聞いて感激したので、馴染み深いこともある。ギターのジェフ・スカンク・バクスターが足を投げ出して座って演奏しているのも独特のスタイルだった。

このバージョンの中程でバクスターがにやりと思い出し笑いをする場面が印象的で、この人の変人さがよく分かる。

トミー・ジョンストンがいる本来のドゥービーズからマイケル・マクドナルド加入後は、マイケル・マクドナルド・バンドのようになったのは周知の通り。しかし、楽曲としての構成力、バッキング・ボーカルなどマイケル以前のドゥービーズの底力があったからこそ、AORとしても名テイクになっている。

 

マイケルとバクスターが在籍していたスティーリー・ダンも評価が高かったので、1990年頃に2枚のCDを聞いてみたが、私にはまったく評価できないサウンドにがっかりした記憶がある。

 

CM曲として、ドゥービーズではロングトレインラニングも使われる。トミー・ジョンストンが復活して、再びドゥービーズとして来日した公演も聴きに行った。

(2014年ごろのブログの復元。)


秋田県大仙市 重文・古四王神社本殿 越(こし)の国 飛騨の匠

2023年09月21日 13時08分25秒 | 秋田県

古四王神社。大仙市大曲字古四王際30。

2023年6月3日(土)。

国史跡・払田柵跡の見学を終え、北西の大曲にある古四王(こしおう)神社へ向かった。幹線道路近くにあるが、一帯は平野の農村地帯である。

境内の主要な建物として本殿、幣殿、拝殿があり、本殿が重要文化財に指定されている。

古四王(こしおう)は、越(こし)の国の王という意味で、縄文時代の北陸系土器の存在が示すように人的な交流があり、祭神の大彦命(おおひこのみこと)は皇子出身で、のちの安倍氏の祖であり、その系統は伊賀・近江を経て北陸へ進出した形跡がある。阿倍比羅夫の北海道進出と合わせ、安倍氏の名は蝦夷出身とみられる奥州安倍氏につながっている。

古四王神社の祭神は、大彦命(おおひこのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)、建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)、水波女神(みずはのめのかみ)。

主祭神は『古事記』・『日本書紀』で北陸を平定したとされる大彦命(オオビコノミコト)。コシオウという神社は、中部以北の日本海側に多く見られ、「胡四王」、「腰王」、「故将」などと書く社の例もあり、その由来については以下の説がある。

祭神である大彦命が高志(越)国(現在の北陸地方)の王であったからという高志王説。秋田城を鎮護する四天王寺が神仏習合して鎮守となった四王堂の四王が、古四王に転訛したという四天王寺説などがある。

本社の由来は高志王説に基づく。

秋田県内では本社の他に、秋田市寺内、にかほ市象潟町、鹿角市八幡平に鎮座する。古代史研究家の新野直吉によると、『日本書紀』斉明天皇条にみえる秋田浦の神が北方遠征を行った阿倍比羅夫と接触し,北陸の神高志(越)王と結合したと推測している。また、祭神の一つである大彦命の北陸平定神話から、本社には勝負事の利益を求めて参詣する人もいる。

通常神社は南か東を向いているものが多いが、古四王神社は北を向いている場合が多。古四王神社崇敬については、武神との関わりから、古代の蝦夷支配との関係を指摘する声もある。

重文・古四王神社本殿。

建築年代:1570年(元亀元年)。構造形式:一間社入母屋造、妻入、向拝一間、唐破風造、こけら葺。

規模:桁行2.545m、梁行2.545m。

室町時代末期の作で、材質は杉・松・桧・栗などが適所に使用されている。和様・禅宗様(唐様)・大仏様(天竺様)などの各様式を採り入れた折衷様で、地方色も採り入れているのが特徴である。

古四王神社本殿は、氏子総代の冨樫家の古文書によると、1570年(元亀元年) に領主戸沢氏が、孔雀城主である冨樫氏(冨樫左衛門太郎勝家)を奉行として建立したと伝えられる。1930年(昭和5年)に行われた文部省(現文部科学省)による解体修理の際に、軒の組物の中に「古川村 大工 甚兵衛」という墨書が発見され、現在の岐阜県飛騨市出身の大工・甚兵衛の作であることが判明した。

古四王神社本殿は1908年(明治41年)に当時の古社寺保存法に基づく「特別保護建造物」(文化財保護法下の「重要文化財」に相当)に指定された。秋田県では初の文化財指定建造物である。

当時、美術建築の権威であった伊東忠太(東京帝国大学教授)は「奇中の奇、珍中の珍」と感嘆し、後に建築史家の天沼俊一(京都帝国大学教授)も「和(日本)・唐(中国)・天(インド)を超越した天下一品の建物」と絶賛した。

向拝の側面上にある藤唐草の彫刻や、木目を利用した一木造りの擬宝珠など、細部に様々な手法が施されている。

建物には細部まで優美な彫刻が施される反面、荒削りな太い材木の堅牢な土台など、繊細さと豪快さをあわせ持つ建築手法が最大の特徴といわれている。組物や、随所に施された流麗な彫刻の数々、深くせり出す「軒の出」と反りの美しさが評価されている。

 

見学後、秋田市の南東部にある弥生時代の遺跡「地蔵田遺跡」へ急いだ。

秋田県大仙市 秋田県埋蔵文化財センター 縄文土器 蝦夷の社会


秋田県大仙市 秋田県埋蔵文化財センター 縄文土器 蝦夷の社会

2023年09月20日 16時09分24秒 | 秋田県

秋田県埋蔵文化財センター。秋田県大仙市払田牛嶋。

2023年6月3日(土)。

旧石器時代。能代市縄手下遺跡。

後期旧石器時代の「台形石器」と呼ばれる石器です。能代市縄手下(なわてした)遺跡から出土しました。年代は今から約33,000年前と推定されます。

形が台形を呈するから「台形石器」と名付けられるという、きわめて単純な命名の仕方ですが、実に謎の多い石器です。とくに、どのように使われたのかが分かっていません。狩猟民であった旧石器人の作った石器ですから、槍の先端部ではないかと考えられていますが、最近の研究成果では弓の矢であった可能性も指摘されています。一般的に弓矢は縄文時代(新石器時代)以降の発明というのが定説ですから、もし旧石器時代の弓矢となると狩猟具の歴史を塗り替えることになります。

この石器は後期旧石器時代の前半期(今から約38,000~30,000年前)のみ製作されます。なぜ消えたのかも分かっていません。(あきた埋文ミニ・コラム№138 2020年4月17日)

払田柵跡出土。

上ノ山Ⅱ遺跡(大仙市)。

堀量遺跡(湯沢市関口字堀量、中期終末)。

雄物川右岸の段丘上にある遺跡で、雄物川は遺跡の西側200mほどを南から北に流れます。高速道建設に伴い平成13年に発掘調査されました。縄文時代中期終わり頃の集落跡で、竪穴建物跡23棟、土坑100基などが見つかりました。竪穴建物は深鉢形土器を埋め込んだ上で、馬蹄形に石を組んだ特殊な形態(「複式炉」と呼びます)の炉を備えています。建物跡群で囲まれたなかに広場があり、その広場中央に集まるよう各建物跡の炉の方向は放射状にそろっています。たくさんの土器や石器が出土しましたが、土器では縄文時代に共通の深鉢形のほか、注ぎ口の付いた浅鉢形が多いのが特徴です。

ヲフキ遺跡(にかほ市)。

旧Ill利郡象潟町大砂川字カクチタ32外にある。遺跡は日本海汀線から東約1kmほどの鳥海山北西山裾部の丘陵緩斜面上にあり,縄文時代前期から中I'期,後期,晩期,弥生時代,中世等にわたっての遺物が検出された複合遺跡で遺跡の面積は3万㎡を超す。

新保式(しんぼしき)土器。縄文時代中期前葉。北陸系土器。主に福井県北部から新潟県北部に分布。山形県や、秋田県でも出土する。

和田Ⅲ遺跡(山本郡三種町)。

小勝田館跡(おがただてあと)。北秋田市脇神字館野22ほか。

縄文土器は、縄文時代前期(約5,500年前)から中期、後期のものがあり、最も多いのは後期前半(約4,000~3,500年前)頃の土器。当遺跡は、国指定史跡である伊勢堂岱遺跡から300m、平田篤胤、黒沢道形、菅江真澄らが記録した「小勝田埋没家屋」の発見地点から500mと近距離にある。

真壁地遺跡(能代市)。

3つの突起を持つ石器で、縄文時代後期に作られた。アスファルトが付着している例がよくある。用途は不明。

東飛塚舘遺跡(山本郡三種町)。

ムサ岱遺跡(能代市)。

米代川流域やその周辺地域の古代遺跡の多くは、日本書紀を始めとした当時の史書に「蝦夷」、「俘囚」などと記されている人たちが残したものと考えられる。

現在、米代川流域の古代遺跡は約570か所見つかっている。そのうち、奈良時代以前の遺跡はほんの数例で、ほとんどは平安時代、それも9世紀後半以降の遺跡である。

集落は住居を中心として構成される人々の生活の拠点である。住居や作業小屋と考えられる半地下式の竪穴建物に加えて、掘立柱建物、墓、溝や板塀などの区画施設のほか、鍛冶炉、製鉄炉といった生産施設が伴う場合もある。

上の山Ⅱ遺跡・ムサ岱遺跡(能代市浅内)の両遺跡は米代川下流左岸、標高30m前後の浅内台地の南端に立地する。2つの遺跡の間には沢があるが、大きくは1つの集落ととらえることができる。

集落は9世紀の終わり頃に台地北西側の上の山Ⅱ遺跡で始まる。当初の竪穴建物には床面積が40㎡を超える大形のものが数棟と、床面積が20㎡前後かそれ以下の小形のものが20棟以上ある。10世紀前葉になると大形の建物はなくなり、小形の建物しか見つからない。一方、この頃には南側のムサ岱遺跡にも竪穴建物群が出現する。ここでは大形の竪穴建物と小形の竪穴建物が併存し、上の山Ⅱ遺跡側の集落成立時期の様子と似ている。大形の住居に住むリーダーと共に人々が2度にわたって移住してきたと考えることができる。

米代川流域集落の変遷。

日本書紀を始めとした古代の史書からは、7世紀後半(飛鳥時代)に蝦夷と呼ばれる人たちが狩猟を行いながら下流域に地域社会を形成していたこと、平安時代の9世紀後半には夷俘(蝦夷・俘囚)と呼ばれる人たちが流域に複数の集落を結びつけて「村」を形成し、各集落にはリーダーがいたことなどが推測される。これに対し、実際の発掘調査では、米代川流域で集落がまとまって発見されるのは、平安時代以降、それも9世紀後半以降のものである。

当初は下流域に集落が出現し、その後、しだいに中流域、上流域へと集落が出現・増加していく。これらの集落は基本的に台地上にあるが、近年の発見から、10世紀の初めには水田で稲作を行う集落が低地に出現していたことが明らかとなってきている。低地の集落は、西暦915年の十和田火山の噴火とそれに伴って発生した大洪水(火山泥流)によって埋没してしまいる。この大災害の復興のために、律令国家の主導のもとで下流域から中上流域へ人々の移住や鉄生産技術の導入などが盛んに行われたようである。

10世紀後半から11世紀には、集落を幅数mもあるような堀で区画する、いわゆる防御性集落が出現する。この時期には秋田城などの律令国家の影響力が弱まり、清原氏に代表されるような在地の有力者が各地で出現することと関わりがあるとみられる。

米代川流域では、平安時代以降集落が定着し、水稲耕作や製鉄の技術などが律令国家側から導入され、流域の開発が進む。竪穴建物の形式や土器の構成、少なくとも一部の墓や祭祀なども大きくは律令国家の文化の影響を受けたものである。

これ以前の流域の詳しい状況は不明だが、狩猟を主な生業として住居の痕跡が残り難い生活を営んでいた蝦夷の人たちが、これらの技術や文化を受け入れて流域の開発を進めたとすると、その社会背景や動機などを明らかとすることが重要な課題である。あるいは、流域で生活していた人たちでなく、より南の律令国家支配地域から、これらの技術や文化を携えた人たちが新たに移住し開発の中心となったのかもしれない。住居や墓、土器を始めとする出土品など、関係資料の詳しい検討を進め、開発の主体者や詳細な経過について考えていく必要がある。

岩倉館跡(いわくらだてあと)。由利本荘市福山字岩倉。

岩倉館跡は、由利本荘市に所在し、本荘地区東部の出羽丘陵西端、標高80m前後の急峻な尾根西端部に位置しています。日本海沿岸東北自動車道建設事業に伴い、平成15・16年に当センターが発掘調査しました。

 調査成果によると館跡は14世紀から16世紀まで存続し、自然地形を利用して構築した空堀や土塁、造成された10か所の郭などで構成されていました。

 出土品は多種多様で、中国産の磁器、国産の陶器、和鏡、銭貨、茶臼、鉄製品〈刀子(とうす)・馬具〉・木製品〈箸(はし)・篦(へら)〉などが出土しています。いずれもこの館跡での領主の生活をしのばせるものです。(あきた埋文ミニ・コラム№145)

 

埋文センターの職員に蝦夷の末期古墳の被葬者を尋ねると、話に付き合ってくれた。

国史跡・払田柵跡の見学を終え、近くの重文・古四王神社へ向かった。

秋田県大仙市 国史跡・払田柵跡②木簡 陰陽師 墨書土器