撮影、前田南~小渕間、2008.5.6
昨日のテレビ朝日の「Jチャンネル」から一言。わかやま電鉄貴志川線のたまスーパー社長の逝去?の報道で、JRからの廃線を受け継いだ・・・とナレーション!はあいくらなんでもそれはないでしょ。元々「南海電鉄貴志川線」を受け継いだのに、何で確認しないのか?プロでしょうが頑張った地元住民の方々に失礼でしょうが!今の日本適当
さて、前置きはこのぐらいにして、さっそく、私がJRで過ごした10年間を綴っていきます。今日は1回目。
1.1994年4月1日入社
入社式は、当時、大宮のソニックシティ―。さすがに高卒と合わせるものだから、1000人強!多さにびっくりしたものです。(田舎者なので)社長は、未だ尊敬する松田昌士氏。(北海道大学出身)司会進行は先輩方。時代は変わったものだと思いました。
入社式の後は、高卒は別行動。大卒である私たちは「大宮の研修センター」(現研究開発センター)にて昼食の後自分たちの足で旧本社(東京駅丸の内口前)へ移動。そこで、短い役員の講義と、「社長との懇親会」!(革新的と思った)
2日目から2週間、大宮の研修センター にて、当然のことながら鉄道の基礎から机上講義やら面接など2分間隔のダイヤで缶詰状態!(無理に2分間隔にしなくても、5分前行動だけでいいと思ったが)この時思ったが、専門に分かれて講義を受けたが、講師が、マニア(嫌な呼称)の私よりわからなくてどうするたかだか115系電車の抵抗制御で説明しきれなくてどうする?鉄道総研の講師でも良かったのでは…。
それに、長時間の受け身の講義は無駄ですね。ほとんど寝てました。私も落ち、目をつけられたものです
最後の極めつけは、箱根の山の中まで行って各班に分かれてロールプレイリングもどきの事をさせられ終了!
15日目からは各支社に研修の旅となり、秋田支社や千葉支社は馬鹿にされたものです。秋田は、「一番の田舎」、千葉は、「国鉄動力車組合員の巣窟」(当時国鉄改革に一番反対しておりまだ活動が激しかった)で危ない。
かくして、当時の人事部の方針で出身大学や出身地に近い場所に配属される(余計なお世話だと思うが)ことになっており、なぜか私は秋田へ。(学校は青森県)いいのか悪いのか…。しかし、この配属が吉と出たか凶と出たかは未だよく解らない…。
秋田支社での研修は、駅業務に始まり、車掌、運転士見習、運転所、工場、設備関係(やたら長い)、びゅうプラザや支社研修を行い、最後は業務研究論文発表会を行い、大宮の研修センターにて数日間研修され、11月に各地へ。一番行きたくなかった南秋田運転所(現秋田車両センター)に本配属になりました研修は長すぎると思いました。高校卒業後一旦就職した身にとっては…。以下次回へと続く。