「終の住処」(文芸春秋・九月特別号掲載)感想。
三人称で書かれた、この話の主人公は、たぶん多くの人にとって感情移入しづらいタイプだろうと思う。
この人物の論理思考は、甚だ妄想的観念的で独り善がりな為、読者は共感や疑似嫌悪等の普通の感情に入っていけないからだ。
この話の主人公が取り憑かれる『周囲の誰もが知っているある重要な事実が彼にだけは知らされていないような』感覚・孤独、が支配する世界。
で、彼は。
『分かっていた』分かられていた。そして自分は分かっていない(知らされてない)。
自ら選んだ状況や、環境は全て予め用意されていたもので、その事を知らされていないのは自分だけなのではないか。
全ては既に決まっている事であり。
妻は予め、これから起こる全てを知っていた、知った上で自分と結婚した。
ならば、何も気に病む事は無い。母親に守られた様に、子供(娘)に救われた様に、何もかも知っていた妻にも許されている筈だ。自分は救われる(守られてる・いた)に違いない。
と、思う。
安住の地。何をしても、自分を擁護して、無償で守ってくれ、何者よりも優先される子供の様な、常に優位に置かれる環境の象徴が「家」であって。
そこには守ってくれるべき、一人の女が居る筈で。それが母であったり、娘であったりする訳なのだけど。
この話は(それぞれの)恋愛を経て疲れていた二人が、充分に悩む(考える)時も持たずに、年齢と孤独という状況の上に『あきらめた』ところ、から始まる。
彼にとって新たな結婚という「家」に於いて、本来それを担ってくれる筈の期待の先は妻であったのだが。それは諦めの理由から選んだ相手(互いに)だった故に、彼の想像通りには進まない。
それどころか自分の置かれている状況全てに、実は彼女の意図(糸)が張り巡らされているのだ、と思い始める。
抗う彼は、複数の女達(恋愛)に救い?を求め。
その後、女達(救い)という幻想から目が覚めた主人公は、守られる家さえ有れば安心だ(優位に立てる)という?思考に至るのだが。
家を建てた彼を待ち受けていたのは…
概ね、この様な話と思うのだが。
さて、私が感じた「違和感」に話を戻す。
最後(まとめ)の、家から離された、この過去しか見てない主人公に与えられる(取締役からの)メッセージから想像するなら。
『今の積み重ねが過去になっているのだ、その「今」から逃げれば(大切な)過去も失うのだ、今と戦わなければ未来が生まれないのだ。(この様な事だろうか?)』
守られるばかりを望むのでは無く、守るべきものの為に戦え。(守る側になる)
過去を肯定したい(残したい)のならば常に今に挑め。更新しろ。
そうとするなら、
遅過ぎた西日の家は、遅れるなのメッセージとも受け取れない訳でも無いのですが。
話の最後。
初めて戦って自分で結果を出した(家を建てたのは妻が依頼した老建築士)主人公を待っていたものが。
『もう二十年以上前にこの女と結婚することを決めたときに見た、疲れたような、あきらめたような表情がありありと甦ってきた、…』(本文抜粋)
もはやその男に残された未来は、なおざりに積み上げて来た過去(妻)だけであった。
諦めで選んだ「妻」という家しか残っていなかった。
西日(人生の日暮れ)へ向かうだけ、の時間だった。
遅過ぎた。
なら、それで目的地に着地していると思えるのだけど。
作者が言いたいのは『四十年、五十年一緒に生活したら、そっちの方が重いんですよね。』だと言う。
気がついた時には、既に残された時間は…という結末が、
作者の言いたい『四十年、五十年一緒に、の方が重い…』に、
(単純に「重い(取り返しがつかない)」なら解るのだけど)
すんなりと結びつかない…
何か釈然としないものが残ってしまうのです。
これが前述の「違和感」で。
目的(意図)と目的地(着地点・作品)が違ってる、かみ合っていない、気が私はしてしまうのです。
果たして、目差した目的地はどこだったのか。
進む、選択する、生きる、の難しさを、主人公達は告げていたのか。
彼は、乗り越えるべき父親(家)の出て来ないこの小説の中で、
英知?として扱われてる(充てられてる)老人(先達・価値)には……
と、私は想像しました。
三人称で書かれた、この話の主人公は、たぶん多くの人にとって感情移入しづらいタイプだろうと思う。
この人物の論理思考は、甚だ妄想的観念的で独り善がりな為、読者は共感や疑似嫌悪等の普通の感情に入っていけないからだ。
この話の主人公が取り憑かれる『周囲の誰もが知っているある重要な事実が彼にだけは知らされていないような』感覚・孤独、が支配する世界。
で、彼は。
『分かっていた』分かられていた。そして自分は分かっていない(知らされてない)。
自ら選んだ状況や、環境は全て予め用意されていたもので、その事を知らされていないのは自分だけなのではないか。
全ては既に決まっている事であり。
妻は予め、これから起こる全てを知っていた、知った上で自分と結婚した。
ならば、何も気に病む事は無い。母親に守られた様に、子供(娘)に救われた様に、何もかも知っていた妻にも許されている筈だ。自分は救われる(守られてる・いた)に違いない。
と、思う。
安住の地。何をしても、自分を擁護して、無償で守ってくれ、何者よりも優先される子供の様な、常に優位に置かれる環境の象徴が「家」であって。
そこには守ってくれるべき、一人の女が居る筈で。それが母であったり、娘であったりする訳なのだけど。
この話は(それぞれの)恋愛を経て疲れていた二人が、充分に悩む(考える)時も持たずに、年齢と孤独という状況の上に『あきらめた』ところ、から始まる。
彼にとって新たな結婚という「家」に於いて、本来それを担ってくれる筈の期待の先は妻であったのだが。それは諦めの理由から選んだ相手(互いに)だった故に、彼の想像通りには進まない。
それどころか自分の置かれている状況全てに、実は彼女の意図(糸)が張り巡らされているのだ、と思い始める。
抗う彼は、複数の女達(恋愛)に救い?を求め。
その後、女達(救い)という幻想から目が覚めた主人公は、守られる家さえ有れば安心だ(優位に立てる)という?思考に至るのだが。
家を建てた彼を待ち受けていたのは…
概ね、この様な話と思うのだが。
さて、私が感じた「違和感」に話を戻す。
最後(まとめ)の、家から離された、この過去しか見てない主人公に与えられる(取締役からの)メッセージから想像するなら。
『今の積み重ねが過去になっているのだ、その「今」から逃げれば(大切な)過去も失うのだ、今と戦わなければ未来が生まれないのだ。(この様な事だろうか?)』
守られるばかりを望むのでは無く、守るべきものの為に戦え。(守る側になる)
過去を肯定したい(残したい)のならば常に今に挑め。更新しろ。
そうとするなら、
遅過ぎた西日の家は、遅れるなのメッセージとも受け取れない訳でも無いのですが。
話の最後。
初めて戦って自分で結果を出した(家を建てたのは妻が依頼した老建築士)主人公を待っていたものが。
『もう二十年以上前にこの女と結婚することを決めたときに見た、疲れたような、あきらめたような表情がありありと甦ってきた、…』(本文抜粋)
もはやその男に残された未来は、なおざりに積み上げて来た過去(妻)だけであった。
諦めで選んだ「妻」という家しか残っていなかった。
西日(人生の日暮れ)へ向かうだけ、の時間だった。
遅過ぎた。
なら、それで目的地に着地していると思えるのだけど。
作者が言いたいのは『四十年、五十年一緒に生活したら、そっちの方が重いんですよね。』だと言う。
気がついた時には、既に残された時間は…という結末が、
作者の言いたい『四十年、五十年一緒に、の方が重い…』に、
(単純に「重い(取り返しがつかない)」なら解るのだけど)
すんなりと結びつかない…
何か釈然としないものが残ってしまうのです。
これが前述の「違和感」で。
目的(意図)と目的地(着地点・作品)が違ってる、かみ合っていない、気が私はしてしまうのです。
果たして、目差した目的地はどこだったのか。
進む、選択する、生きる、の難しさを、主人公達は告げていたのか。
彼は、乗り越えるべき父親(家)の出て来ないこの小説の中で、
英知?として扱われてる(充てられてる)老人(先達・価値)には……
と、私は想像しました。