土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

目的と目的地(感想1)

2009-09-09 23:57:58 | 本・映画
「終の住処」(文芸春秋・九月特別号掲載)感想。

前置き。
三分の一を読んだ所で本屋を後にしようとしていた私は、実は(構わなかったので)先にラスト(娘の居なくなった、西日の部屋に妻と二人…の部分)と選評を読んでしまってて。
それで、前述した予測感想文?第一印象文なる物を書いたりしてたのだが。いいかげん、不埒な行為なので、その後は止めて横へ置いといた。
一昨日、やっと続き(実際は頭から)を読み始め読了した。


話のおおよその筋は予想通り。そのまんまならば、それで成り立つ話なのだろうが。どうも、それがそのまんまでは無いらしい。
作者のインタビュー記事は、掲載誌の他、新聞等でもいくつか読んだのが、私はそれに違和感を感じている。
それは、作者の『言いたかったこと』に関してなのだが。

『この小説は、夫婦のすれ違い、ぎくしゃくした不幸な関係を描いていると読まれてしまうかもしれませんが、僕が書きたかったことは少し違います。』
(結婚や人生なんて)こんなもん…的な。見たく無いもの、横に置いて見ない様にしてたもの?を改めて突きつけられた後に。
西日(『あきらめたような表情』)しか残されてないラストに。
作者の言うところの『どんなに性格や価値観が違っていて、理解し合えない夫婦でも、四十年、五十年一緒に生活したら、そっちの方が重いんですよね。』に。
説明に頼らずに。
そこへ読者は、果たして辿り着く事が出来る(た)のであろうか?なのである。

関係性を保った時間が、中身の充実や質に関わらず大切な事に人生の上では成りうるのだ。という事は、ある意味事実だろうと思うが。
本来、ここで言う?時間の重さとは「共有したという認識」の上に成り立つ物である筈だ。
(実質の一緒の時間とは関わらずとも生まれうる物でもある)

だが、この主人公(或いは妻も)は自ら「共有」の中に入って行く事を最初から最後まで拒否し続けている。責任回避に線の外側から全てを眺めているだけの男でしか無い。
諦めや通念で『選ばされた(実際は選んだ)』結婚、人生という伴侶から逃れようと。
理由探しへ走る(そして知的に言い訳を繕う)という幾度と無い試み、行為からは、重ねた『時間(過去)』の重みは感じられない。

作者は、それらですら『消し難い過去』に値する(その『過去に守られている』)と言っている?訳なのだが。
理屈で。重ねた年月とは、有ったそれだけで素晴らしいものなのだ、と言われても、この主人公で言われても、というのが正直なところなのだ。
侵し難い、その人が在った印の過去とは、自己を正当化するを考えないところに有るのではないか?


そして。頭の中でこねくりまわす『へりくつ』を楯に、自己肯定に終始する主人公に肩入れする人間は余り居ないと思うが。
何かスピリチュアル系で言われる所の必然、運命論的なものを逆手に取った『だから今こうあるのは、このままで構わないのだ』(←この拡大解釈は今、余り関係無いが)的な…いや、それよりもやはり。
どうも『外に居て』この様な事を考えてる知っている『自分は達観してるのだ』という、匂いを、彼 に、どうしても感じてしまう、想像してしまうのだが。そう思うのは、この感覚は、私だけの、だろうか。

選評に『鼻持ちならないペダンチストここにあり、といった反発すら感じたが…』という一文が有ったが。
確信犯であればまだしも。この自覚してる様で、その実全くという「鼻持ちならない無自覚さ」は果たして……

(続く)


関連記事
http://pub.ne.jp/nekome9_1/?entry_id=2364084

http://pub.ne.jp/nekome9_1/?entry_id=2368457


最新の画像もっと見る