この世界遺産が設定されているのは、カスピ海沿岸の都市バクー
の旧市街である。城壁内は一般にイチェリ・シェヘル(アゼルバイ
ジャン語で「内城」の意)と呼ばれている。
バクーの町は5世紀頃からあったとされるが、その存在が確認される
のは10世紀以降である。バクーは伝統的に現在のアゼルバイジャン
共和国東部にあたるシルヴァン地方の主要都市で、もともとペルシア
人のゾロアスター教徒の多い街であったが、アラブ人とともにイスラム
教が到来し、さらに現在のアゼルバイジャン人の直接の先祖となるテュ
ルク系の遊牧民が侵入した。
1538年までは、土着の王朝シルヴァン朝が首都としていたが、南のアー
ゼルバーイジャーン地方(現在のイラン領アゼルバイジャン)に興った
サファヴィー朝の支配を受け、さらに1585年にはオスマン帝国によって
征服された。まもなく17世紀にはサファヴィー朝の支配下に戻るなど、
イランとトルコの政権の間で争奪が続いたが、1806年にはカスピ海西岸
を南下してきたロシア帝国によって占領され、ロシア人主導で近代都市
が建設された。
さまざまな民族の支配を受けたことにより、バクーはアゼルバイジャン
固有の文化はもとより、アラブ、イラン、ロシアなどの影響と文化が共
存する独自の景観を持つようになった。
日記ブログランキングに参加中です。
よろしければ下のボタンを押して下さいね。

の旧市街である。城壁内は一般にイチェリ・シェヘル(アゼルバイ
ジャン語で「内城」の意)と呼ばれている。
バクーの町は5世紀頃からあったとされるが、その存在が確認される
のは10世紀以降である。バクーは伝統的に現在のアゼルバイジャン
共和国東部にあたるシルヴァン地方の主要都市で、もともとペルシア
人のゾロアスター教徒の多い街であったが、アラブ人とともにイスラム
教が到来し、さらに現在のアゼルバイジャン人の直接の先祖となるテュ
ルク系の遊牧民が侵入した。
1538年までは、土着の王朝シルヴァン朝が首都としていたが、南のアー
ゼルバーイジャーン地方(現在のイラン領アゼルバイジャン)に興った
サファヴィー朝の支配を受け、さらに1585年にはオスマン帝国によって
征服された。まもなく17世紀にはサファヴィー朝の支配下に戻るなど、
イランとトルコの政権の間で争奪が続いたが、1806年にはカスピ海西岸
を南下してきたロシア帝国によって占領され、ロシア人主導で近代都市
が建設された。
さまざまな民族の支配を受けたことにより、バクーはアゼルバイジャン
固有の文化はもとより、アラブ、イラン、ロシアなどの影響と文化が共
存する独自の景観を持つようになった。
日記ブログランキングに参加中です。
よろしければ下のボタンを押して下さいね。
