今年もあと28時間を残すのみ。今夜は1年を振り返ってみよう…
なんと言っても40年のサラリーマン生活にピリオドを打った事は大きい。
しかし10年程前からこの日に向けてウクレレ屋、ウクレレ教室など種蒔きもしてきた。
地元でバンド活動もそこそこさせて貰えるようになって来たのは有難い事。
そうだ今宵は、40年の会社勤めを振り返ってみる。
絵描きになりたいから美術系大学に行くと言うと、
父から、勘当すると言われ、転び入った法政大学。そして入った電電公社。
初期配属の荏原電話局の二人目の局長の故M原さんに可愛いがられ
夜な夜な社内の呑み会後にカラオケで鍛えてもらった。
赤坂のピアノバ−にも連れて行かれ、生ピアノで歌う事の難しさも教わった。
M原さんはいつも上手でエンタティナーで憧れの上司だった。
彼のエンタティナーぶりは広報部で培われたものと知り、私も絶対行きたいと願うようになった。
そしてその道を進ませてくれた。テレカの営業から広報、その後は
本社広報部、社内報、社内TV、電話100年事業と担当した。
この時期は、私生活では結婚や長男誕生など大きなイベントがあったが
24時間働けますか、という時代だった。それが当たり前の風潮だった。
そしてそれが全く苦ではなかったのは、広報系の仕事のお陰もあるだろうと思う。
取材で全国に行き、100年事業で国際ヨットレースチ−ムマネ−ジャ−をし、
出版社に出向して、ゲーム会社と親しくして攻略本を制作してベストセラーになり
ゲームCDもしかり、さらにアニメ映画、自社オリジナルゲームまで制作した。
ここまでやれたのは、やはり故M原さんに導かれたのだろう。
そしてゲームで失敗して、空中分解し、営業に転向、その後は真面目な
営業のマネ−ジャ−として、宮使い人生を全うしました。
営業の時にのめり込んだのが、ウクレレで、苦行の中には必ずそういう楽しみが生まれる
というか、作るものというか。
とかなんとか書いていると、今年もあと26.5時間となりました。
皆さん、良いお年をお迎えください。
2023年3月31日をもちまして、小生は42年間のサラリーマン生活を終了させていただきました。
ブログをゆっくりと書いていく時間もできそうなので、今後は少しずつ書いて行こうかな。
完全退職の翌日は、鎌倉のあさくさ食堂にて今年最初のライブを開催しました。
来場予定者のうち4名が急遽来れなくなったと連絡があったけど、逗子マリーナの帰りに
チーム7人程度で行くよ~という村ピーの参戦があり、逆転満塁ホームラン!でした。
ありがとう、村ピー!
そして鎌倉は昨日一昨日まで桜が満開で、観光客満員状態でした!でも、今は葉桜になりかけ
すっかり人出も沈静化しました。そりゃあガクット言うようです。
ライブの翌週、市川の母のところへ久々に訪問し、市川の桜と菜の花を二人で見に行った。
3年前に亡くなった父の未使用のスケッチブックと父が師事していた画家の画集を貰ってきた。
その画集を見て、父がこの先生の影響を随分受けていたことを知りました。
更に母から、父が何年も書き溜めた風景淡彩画のスケッチブックが何冊もある事を聴きました。
趣味人だった父は、詩吟、尺八、水彩画と色々手を出して、それぞれかなり真剣に取り組んで
それなりの成果を出しております。
ある事を思いついたので、今度このスケッチを全部チェックしてみようと思います。
今回この新型コロナウイルスに関して、私は少し甘く見ていたと反省している。
もちろん1月以降のライブは全て中止にしてるし、実質世間様にご迷惑をおかけ
していることはない。だが、どこか別の、他人事のような気持ちでいたというのも
事実だ。3月には恒例の福島復興支援旅行もしているし。
だが、志村けんさんが亡くなり、今日また女優の岡江久美子さんがやはりコロナで
亡くなったという報に接し、他人事ではないと痛感した。
まだ、自分の周りの知人でコロナで入院している人が居ないのは単に運に恵まれて
いるに過ぎないのだ。外出自粛は目的意識と危機感を持って積極的に実施する。
今日も冷蔵庫にあるもので3食済ませた。今後も買い出しも避けられるうちは避けよう。
このウイルス、コロナは非常に危険なウイルスである、と今更ながら実感した。
全国各地の観光地で自治体の長が、今この時期には来ないでくれと発信している。
目に見えないだけに、これは想像力の能力差によるものも大きいと思うが、たとえ
車で通過するにしたって、渋滞するっていうのはどうかと思う。
自粛しよう!一年くらい我慢しようぜ。観光地、海、山は逃げやしないぜ。
さらに、今年は初めてラッキョウを漬けてみました。というのも江の島でダイゴローさんに
漬け方を聞いたら結構簡単に出来そうでチャレンジしてみようかと思ったから。
もう食べてますが、結構美味しいです。


バンドの練習も順調にやっております。
今年の夏は、ライブ予定がすでに4件入っており、いつになく多忙。
7月20日(土)あおぞら亭ライブ
7月28日(日)御成通り商店街ぼんぼり祭り路上ライブ
8月05日(月)川崎の重度障碍者施設にてライブ
8月19日(月)由比ガ浜商店街振興組合 納涼大会ライブ
目下の悩みは全員が参加出来るライブが少ない事。これは、会社員、自営業、教師、保母と
それぞれ皆仕事を抱えている現役社会人だから仕方のないこと。






そして、ゴルフクラブを新しくしたので、練習場通いがこれから日常になると思い
家から一番近い、七里ヶ浜ゴルフ練習場の同好会会員になってしまったことも
ここ数年では稀有なトピックスだ。


長谷の経音さんでは、相変わらずウクレレを置かせてもらってますが、ここ数か月は
一本も動きません。これから夏本番になれば、ウクレレのシーズンですから期待します。



会社の近くの江東区民の田んぼは今年は「レイワ」という文字を田んぼアートに。



そして、江の島のヨットRydeenは今年のワールドカップと来年のオリンピックで江の島の
係留バースがが使用されるため、江の島以外への移転をしなければならない。
それにあたって県との来年のオリンピックに関わる艇の移動の契約を交わした。
バース名義人のトミーとMT氏、ダイゴローさん、私が立ち会った。



海の家も、海開きと同時にスタートしたところは、タイ村ぐらいじゃないかな。
7月1日以来、仕事が休みの日でお昼を外食にする日は必ずタイ村に行って食べている。
889というタイ料理の店のオーナーは中国人の女性で、なかなかやり手で毎年ここに
出店している。しかし、今年は開店以来一度も晴れず、気温も上がらず、お客が来ない。
毎日、何万円もの経費が黙っていてもかかる海の家への出店は天候に大きく左右される。
「毎日お通夜だよ~」って嘆いていたが、本心だろう。
ここもいきつけなので、顔を出さない訳にはいかない。











エリちゃんとウチがお世話になっている不動産会社のケンイチさん(今は別の会社ですが)
の結婚式が葉山であって列席しました。
呼ばれた私とナディアさんはウクレレ演奏も依頼されてたので、私は結構緊張。
演奏は披露宴前の人前結婚式の最後に、新郎のリクエストの“I'm yours”を二人で
インストルメンタルで、というもので、式の締めくくりに盛り上げないといかん設定。
この曲、結構長いんですよね。歌詞がないと更に長く感じるのは、聴いてるひとより
弾いてるこっちの方が感じました。で、最後だけ少しカットしました。
皆さんに「良かった素敵でした」と優しいお言葉をかけて頂けて良かった。
でも、式で出番があるというのはそのあとが気が楽になって、楽器もクロークに預けて
しまったし、あとは楽しみました。いい天気に恵まれて、とても素晴らしいスタートを
切れたお二人でした。天が祝福してくれているのでしょう。おめでとう。
気分よく呑ませていただきました。感謝。










地震そのものと直後の津波によって多数の命が失われ、助かった人の心にも
大きな傷を残した。
“夜、菅総理が国民に向けてテレビで呼びかかけた。
「未経験の災害だが、日本はこれまでも立ち直って来た。今回も国民が力を合わせ
困難を乗り越えて新しい日本を作ろう」というものだった。
被災した多くの発電所が送電をストップしており、明日から電力不足を回避するため
地域を区切って交代で計画的に停電を行うので協力を、というものだった。
こういう時こそ、明日から全国民が一致して知恵と力を合わせて、我が国の復興の
ために、必ずや目標以上の成果をあげると、私は確信している。
特別なことをする、という訳ではなく、各自ひとりひとりが日頃の自分の仕事を
日頃のように出来るように復旧することが、とりもなおさず日本国の復旧に直結
することなのだ。”(2011年3月13日のブログより)
そしてこの後、原子力発電所の心臓部である原子炉の核燃料が制御不能になって
メルトダウン。史上最悪の原子炉事故となった。この事故はいまだに収拾がついていない。
原子力利用がまるで夢のエネルギを人類は得たかのように思った時代は終わった。
当時日本政府は「今後何年かかけて原子力発電所を全て廃止する」というエネルギー
政策を選んだはずだった。そして各地の原子力発電所の運転を次々に停止していった。
再生可能エネルギー、風力、日光、地熱、潮流などによる発電が各地で本格的に始動した。
ところがこの数年後、自民党の安倍政権が復活し、この方針は転換され各地の原発が
再稼働に向けた準備を始めた。経団連など経営者団体も原子力発電に賛成の声を上げ
始めている。
我が国の電力の優先順位は、火力、水力、原子力であり、再生可能エネルギーの順位は
その下だとテレビで言っていた。最近では再生可能エネルギーの発電量が増えて、他の
発電量を圧迫すると、再生可能エネルギーの発電出力を押さえる方向になるらしい。
つまり順位の低い再生可能エネルギーを電力会社が買い取らないという状況も生まれて
いるという。
日本は外国に原子力発電所のノウハウを販売している。その日本が原子力を使わない
という訳にはいかない。原子力は安全なのだと日本は思っていると信じさせる必要が
ある。・・・本当にそうだろうか、阿部さん。
国家が豊かになるというのは、物を沢山作って、街に物資や食べ物があふれ、お金を
沢山使って、さらにお金を沢山稼ぐことなのだろうか。
そして、それを達成するには原子力発電所が必要なのだろうか。
2016年国連でウルグアイのホセ大統領(当時)の「先進国と同じだけの消費を途上国が
出来るだけの資源がこの地球にあるのか」「貧しい人とは持っていない人ではなくいくら
あっても満足しない人のこと」」という感動的なスピーチを思い出します。
もう一度、原子力発電については再考して欲しい。将来の我々の子供たちのため、私たちの
国のために。
2011年3月11日から12日までの写真にキャプションをつけて並べた。

地震直後、青山の選挙事務所の臨時電話取付工事中の現場で被災。ビルから下を見ると
通行人たちが話しあっている姿が見えた。

地下鉄に乗ろうとしたが、止まっていた。家族にも会社にも連絡がつかない。
工事工事担当のSEは家まで歩いて帰れるというので帰し、私も徒歩で銀座へ。
家族にはこの後連絡が付き、全員バラバラだが無事を確認した。

途中のコンビニでは食料が棚から消えていた。
会社に戻ると、部下たちは全員無事で電車が止まっているため、帰宅困難。
全員で会社に泊まることを決定。災害用の食糧が配られたが、私の担当は行きつけの
居酒屋で何か食べ物を作れないかと「銀三」へ。


銀三では、つまみくらいしか作れませんが、と作ってもらっている間に、全員ビール。


翌日、部下たちが何とか帰る算段を付けて全員帰ったあと、京浜急行が動いていると
いうので、銀座から品川まで徒歩で向かう。品川駅が外まで大混雑なので、第一京浜国道を
そのまま歩いて南下して、最悪逗子まで全工程徒歩でも帰る心を固める。
道路には車道まではみ出して歩く多くの人々の列。みなさん整然と黙々と歩いていた。
青物横丁駅でついに京急に乗り、新逗子駅に昼頃到着できた。

田越川には津波の形跡が色濃く残っていた。