鎌倉の由比ヶ浜、滑川の河口へ降りる階段のそばに、さくら貝の詩の碑が建ったと
このブログでも紹介した。
そのとき、私はこの唄は、逗子の海岸での話と思っていた、と書いたが、その話の続き。
作詞の土屋花情は、やはり逗子役場の職員で、この詩の元となった短歌を作ったのが
のちの作曲家、八洲秀章(やしま・ひであき)で、土屋に依頼して出来た詩に、
八洲自身が曲をつけたものとのこと。
このあたりの事は、二木紘三氏のブログ「二木紘三のうた物語」に詳しい。
二木氏のブログを読んで、この詩の背景がはっきりしてきた。作曲の八洲の恋人の
八重子が18歳で病で亡くなり、それを嘆いた悲しい曲だということ。
この詩の元となった、八洲の短歌は…
わが恋のごとく悲しやさくら貝
片ひらのみのさみしくありて
確かに、海辺で拾う桜貝は、二枚貝なのに一枚だけで拾う事が多い。
この詩もかつて、逗子に住んでいたころ、このブログで紹介したことがあったが
単に、片思い、失恋の短歌と思っていたが、こんなに悲しい話があったとは。
昭和14年ころは、まだ結核で亡くなる人も多かったのか…。
そんな二人を思い、一緒に悲しんだ親友と、八重子の詩を作ったのだろう。
作家であったなら、愛と死を見つめて、のような悲恋物語にもなったかもしれないが
かえって、音楽になって詩になって、今に語り継がれるというのも、色あせない青春
だと言えるかもしれない。
このブログでも紹介した。
そのとき、私はこの唄は、逗子の海岸での話と思っていた、と書いたが、その話の続き。
作詞の土屋花情は、やはり逗子役場の職員で、この詩の元となった短歌を作ったのが
のちの作曲家、八洲秀章(やしま・ひであき)で、土屋に依頼して出来た詩に、
八洲自身が曲をつけたものとのこと。
このあたりの事は、二木紘三氏のブログ「二木紘三のうた物語」に詳しい。
二木氏のブログを読んで、この詩の背景がはっきりしてきた。作曲の八洲の恋人の
八重子が18歳で病で亡くなり、それを嘆いた悲しい曲だということ。
この詩の元となった、八洲の短歌は…
わが恋のごとく悲しやさくら貝
片ひらのみのさみしくありて
確かに、海辺で拾う桜貝は、二枚貝なのに一枚だけで拾う事が多い。
この詩もかつて、逗子に住んでいたころ、このブログで紹介したことがあったが
単に、片思い、失恋の短歌と思っていたが、こんなに悲しい話があったとは。
昭和14年ころは、まだ結核で亡くなる人も多かったのか…。
そんな二人を思い、一緒に悲しんだ親友と、八重子の詩を作ったのだろう。
作家であったなら、愛と死を見つめて、のような悲恋物語にもなったかもしれないが
かえって、音楽になって詩になって、今に語り継がれるというのも、色あせない青春
だと言えるかもしれない。



