スペースノイズ

α宇宙域「地球」からの素粒子ストリングス変調波ノイズを受信!彼らの歴史、科学、娯楽、秘密など全てが含まれていた。

バルジの戦い 兵站の重要性

2020-07-15 08:57:25 | WWⅡ
●戦術の要諦、兵站を叩け

 戦闘部隊の主要な構成要素は、大まかな分類で3つ。戦闘部隊、支援部隊、司令部。支援部隊は一般に兵站部隊ともいい、戦闘部隊の戦闘能力を最大限に発揮・維持するために、補給・輸送(武器・弾薬・食料等)、攻防工作(障害物の排除・築城)、通信、修理、衛生、調達などを支援する重要な要素である。そのため敵の「糧道を断つ」、「補給線を分断する」、「兵站を叩く」というのは大昔から有効な作戦目標である。

●重要兵站基地アントワープ港を確保するも、優先順位を間違えマーケット・ガーデン作戦を先発させた


 1994年6月6日のノルマンディー上陸作戦から約3カ月、フランス、ベルギー、オランダを奪還した連合軍は西部戦線を東に向けて押し返していた。急激な快進撃を続けたため補給線が伸びきり、進軍が遅れはじめ、兵站が問題化してきた。大規模なトラック部隊による輸送作戦、レッド・ボール・エクスプレス作戦を行うがフランス西海岸のノルマンディーやシェルブールからの補給線では長すぎた。8月末にベルギーのアントワープ港を無傷で奪還し新しく補給基地を獲た。しかしアントワープ港は海から60km離れたスヘルデ川上流にあった。河口のワルヘレン島や河岸には独軍が部隊を配置して機雷も敷設されたため、補給基地としては役にたたなくなった。

(ナショナルジオグラフィックCH「窮地のヒトラー 進撃の連合軍 アントワープを制圧せよ」)


そのため英軍モントゴメリー将軍の発案で、アントワープの東側に戦力を集中し北上、独軍のジークフリート線北端を迂回する形でオランダのアルンヘムを目指すマーケット・ガーデン作戦が9月17日から実行されたが失敗。ライン川渡河一番乗りの功を焦ったモントゴメリー将軍の失敗であった。後付けの解説になるが、ワルヘレン島の奪取と兵站基地アントワープ港稼働を優先すべきだった。

(グーグル・マップandヒストリーCH「偵察写真が語る第二次世界大戦 マーケット・ガーデン作戦」)


逼迫した補給問題が解決されないまま連合軍の進軍が止まった。戦線は膠着し兵站の建て直しのため、アルデンヌ地方でドイツ軍と対峙する形勢となった。
10月、11月にかけてスヘルデ川岸に残存する独軍をようやく撃破して(スヘルデの戦い)、11月28日にアントワープ港に補給物資を揚陸することができた。だが長引く悪天候が再び連合軍を足止めした。


●ヒトラーはこれを好機とみて、アントワープ兵站基地占領を目標に大反攻計画を実施

 濃い霧が立ち込める日々が多い気象と森林が続くアルデンヌの地形を利用して、ヒトラーは密かに約25万人の兵員と大戦車群からなる3個軍を前線に集結させた。

 反攻作戦は連合軍前線の南側、米パットン3個軍と北側英1個軍を奇襲攻撃して足止めし、その間に親衛隊員約7千人、戦車約90両からなるパイパ-装甲戦闘団が迂回路を突進してアントワープを目指すことになった。

(ディスカバリーCH「バルジの戦いと米軍工兵部隊」)


 ヒトラーは先鋒部隊の指揮官であるヨアヒム・パイパー親衛隊中佐に、進軍を阻む敵に容赦はするな、敵兵は皆殺しにして、3日以内にアントワープを奪還せよと厳命した。

1944年12月16日、ドイツ軍は作戦を開始。命令どおりパイパー戦闘団は、進軍途中で遭遇した連合軍の兵站部隊を次々と撃破し、捕虜は拘束せず虐殺していった。ブッフホルツ駅の米兵捕虜、次のホンスフェルドの米軍燃料集積所の兵士、続くビュルンゲンの米軍燃料集積所の兵士、そしてマルメディの砲兵観測大隊の米兵捕虜が虐殺された。

 ドイツ軍の反撃時、濃霧の発生で飛行偵察はできず、通信の途絶が頻発し、錯綜する戦場で情報は混乱し兵站部隊には詳細な敵情は把握できなかった。加えて重武装・大兵力のパイパー戦闘団に比べ、兵站部隊の装備は貧弱で戦闘訓練も不十分だった。このような兵站基地が目標となる敵の作戦が発動されると、兵站部隊の方がリスクは高くなり、逃げる余裕も無くなった。

 あまり知られていない話だが、このパイパー戦闘団の前進を遅延した主役は百名ほどの装備も貧弱な兵站部隊だった。
映画「300(スリーハンドレッド)」は、スパルタ王レオニダスが300名の親衛隊を率いて100万のペルシャ軍を狭小な地形を活用して足止めした「テルモピュライの戦い」をベースにしたものだが、こちらは映画にはなっらなかった「100(ワンハンドレッド)」の物語。


●パイパー戦闘団を足止めした「100(ワンハンドレッド)

 マルメディ死守を命じられていたのは、総勢百人ほどのデビット・パークリング大佐に率いられた米第291戦闘工兵大隊だった。名前に「戦闘」はついているが、装備は各自の銃、大隊配備の機関銃3丁、バズーカ砲5、6門だけだった。マルメディで幸いにもパイパー戦闘団に遭遇しなかったパークリング大佐は、通信途絶の中、銃声のする方へ偵察に行った。そこで砲兵観測大隊兵士の虐殺死体が散乱する現場を発見。3人の生存者を救出し状況を聞いた。大佐は強力で残虐なドイツ軍部隊がアントワープに向かっていることを知り、地図を開いて敵部隊の敵前進遅延作戦を検討した。マルメディからアントワープに至る経路には川が複雑に交差していて、敵はこれらの橋を通過する必要があった。また連合軍の燃料集積所も襲撃奪取していく必要もあった。これが敵の弱点であるとパークリング大佐は気づいた。

(ディスカバリーCH「バルジの戦いと米軍工兵部隊」)


 大佐はただちに大隊を複数の分隊に再編し、パイパー戦闘団が通過するであろうと予測される橋に分隊を先回りして派遣した。敵が現れたら橋を破壊するよう命じた。橋は全て破壊すればいいというものではない。味方占領地内の縦深にある橋は、味方の攻撃部隊が支援に駆けつけた場合は敵の追撃路として必要になる。また味方の前方部隊が後退してきた時には確保が必要であったからだ。

 第291戦闘工兵大隊の各分隊は予想される橋の対岸で身を潜め、パイパー戦闘団の戦闘斥候や橋確保にやってきた先遣部隊の目の前で橋を破壊していった。
 12月18日 午前10時 リエンヌ・クリークにやってきたパイパー。ここを渡ればアントワープまで開けた台地が続き目標に突進するだけだった。しかしその時、目の前で橋が爆破された。隠れていた第291戦闘工兵大隊の分隊が爆破スイッチを押したからだ。動きがとれなくなったパイパーは呆然と立ち尽くした。

(ディスカバリーCH「バルジの戦いと米軍工兵部隊」)


そしてしかたなくパイパー戦闘団は後退を始めたが、時すでに遅く、駆けつけたパットンやモントゴメリーの主要部隊がパイパー戦闘団に襲いかかった。もはや後退迂回はできず撤退するしかなかった。

1945年1月25日、ドイツ軍の大敗北でバルジの戦いが終結。パイパー戦闘団は兵力7000人中、生き残ったのはわずか800人ほどだった。指揮官ヨアヒム・パイパーは戦後、人道の罪で裁判にかけられた。