先日数少ない友達仲間から、彼女の娘の通う小学校の話をきいて
うーん。となってしまいました。
うーん、となって、色々考えていて思うこと。
「人間は間違いをするものである」
ということは、もっと考えられないといけないし、
伝えないといけないのではないだろうか。
ちいさい子供も、大きい子供も、大人も、親も、先生も、
間違えることは、ある。
嘘をつくことも、ある。
人を傷つけてしまうことも、ある。
人の不幸を笑うことも、ある。
自分の保身に走ることも、ある。
皆、間違えることは必ずある。
間違いをした人を感情的に糾弾してしまう、
そういう、間違いだって、ある。
その糾弾した人を「オマエはわかってない!」
と糾弾し返したくなったりするが、それも間違いだ。
皆、間違えることはあるんだから。
「正しい」「悪い」の選別の前に、
「間違えちゃったね」という共感や
「間違えちゃった、ごめんね」という間違えられた側への言葉や
「間違えさせる状況を作っちゃったね」という周りの反省があって、
はじめて「どうやったら間違えなかったのかな」と思える。
そういうことを、意識してやっていかないといけないと思う。
自分の子供に対しても、他の子供に対しても、
他の大人に対しても、身内に対しても、先生に対しても、学校に対しても。
そして考えてみれば、友好な大人同士だったらやっていることだ。
出来ないはずはないんだ。
「どうしたってここは間違えられないぜ」
という一世一代の場面というのは必ず人生にはあることだけど、
それは人生に2回くらいあればもう充分な話で(甘いすか?)、
普段はもっと寛容な社会であったらいいと思うし
寛容な自分でありたいと願う。
でも、実際にどうやって動いたらそういう社会になるの?
と思うとわからない。
現実に「先生が生徒を「間違ったおまえは悪い」と断定すること」や
「国が先生を「間違ったら減点だ」と判定すること」や
「親が学校に「間違えやがって」と糾弾すること」が日々あって、
みんなが「間違えたらいけない」と思って動いていて、
だから間違いを許せなくて糾弾しあって排除しようとしてる。
そういう世界がすでにあって、
わたしの中にも少なからずそういう
「間違いは許せません」的部分があって、
それで。
それで、どうすればいいんだろう。
なにか出来ることはあるんだろうか。
いろんな方向から考えてみたけど、やっぱり見えません。
オットが言ったことなんだけど
「雰囲気の良い人を盛り立てていく」
というのが一番よいのかもしれません。
そして
「「間違いを許す」ことで困った状況になった人がいたらその人を守る」
ということかな。
学校の先生とかって「間違いを許し」たりしたら
誰かにすごい怒られたりしそうだしな。
誰かって誰だ。
まさか私じゃないよね?
うーん。となってしまいました。
うーん、となって、色々考えていて思うこと。
「人間は間違いをするものである」
ということは、もっと考えられないといけないし、
伝えないといけないのではないだろうか。
ちいさい子供も、大きい子供も、大人も、親も、先生も、
間違えることは、ある。
嘘をつくことも、ある。
人を傷つけてしまうことも、ある。
人の不幸を笑うことも、ある。
自分の保身に走ることも、ある。
皆、間違えることは必ずある。
間違いをした人を感情的に糾弾してしまう、
そういう、間違いだって、ある。
その糾弾した人を「オマエはわかってない!」
と糾弾し返したくなったりするが、それも間違いだ。
皆、間違えることはあるんだから。
「正しい」「悪い」の選別の前に、
「間違えちゃったね」という共感や
「間違えちゃった、ごめんね」という間違えられた側への言葉や
「間違えさせる状況を作っちゃったね」という周りの反省があって、
はじめて「どうやったら間違えなかったのかな」と思える。
そういうことを、意識してやっていかないといけないと思う。
自分の子供に対しても、他の子供に対しても、
他の大人に対しても、身内に対しても、先生に対しても、学校に対しても。
そして考えてみれば、友好な大人同士だったらやっていることだ。
出来ないはずはないんだ。
「どうしたってここは間違えられないぜ」
という一世一代の場面というのは必ず人生にはあることだけど、
それは人生に2回くらいあればもう充分な話で(甘いすか?)、
普段はもっと寛容な社会であったらいいと思うし
寛容な自分でありたいと願う。
でも、実際にどうやって動いたらそういう社会になるの?
と思うとわからない。
現実に「先生が生徒を「間違ったおまえは悪い」と断定すること」や
「国が先生を「間違ったら減点だ」と判定すること」や
「親が学校に「間違えやがって」と糾弾すること」が日々あって、
みんなが「間違えたらいけない」と思って動いていて、
だから間違いを許せなくて糾弾しあって排除しようとしてる。
そういう世界がすでにあって、
わたしの中にも少なからずそういう
「間違いは許せません」的部分があって、
それで。
それで、どうすればいいんだろう。
なにか出来ることはあるんだろうか。
いろんな方向から考えてみたけど、やっぱり見えません。
オットが言ったことなんだけど
「雰囲気の良い人を盛り立てていく」
というのが一番よいのかもしれません。
そして
「「間違いを許す」ことで困った状況になった人がいたらその人を守る」
ということかな。
学校の先生とかって「間違いを許し」たりしたら
誰かにすごい怒られたりしそうだしな。
誰かって誰だ。
まさか私じゃないよね?
「お互い様」の精神が、みんなから抜け落ちてしまってるよね。
自分が、怒っている・許せない相手の立場に、明日自分がなるかもしれない、と言うことをみんな、忘れてる。
どうしたら、思い出してくれるんだろうね。
難しいよね。ホント、どうすればいいんだろう?
↑の
間違えちゃった話もさ、
間違えた人が「間違えちゃった!どうしよう?!」
って良くないことだって分ってる事が前提じゃないと
周囲が「許し・赦し」て共感すると最悪な方向に展開するんだよね。。。
「間違えは誰にでもあるし~」と正そうとする気持ち0のままどんどん間違えて突き進む人がいたりなんかしちゃうから、
みんな寛容になって許すという行為が難しくなっちゃうんだよね。
どんどんこういう倫理・道徳的事象がぐらぐら揺らいで変化してきてるなぁって
時代の変わり目なのかなぁって
いろんな事が脳内をぐるぐるしてます。最近の私
社会をエイッと一度に変えることはできないけれど、こうして互いにつぶやきあって時々思い出すことが大切な気がします。
これからもつぶやいてくださいね。
私、いま教職も取ってるんですよー。
なぜか人間は基本的に「結果」しか尊重しないことが多いと思います。
「結果(点)」と「その解を得るまでのプロセス(線)」はどうだったのか。
それを認識して人と話しをしなければ、理解しあえないような気がします。
相方と過ごしている約5年間で「考え方」や「他人への伝え方」を再勉強している日々です。
特に権力者(大人)が立場の弱いもの(子供)に対する時に忘れてるよね。私もしょっちゅう忘れる。いかんよね、やっぱりさ。
咲蔵
そうなのよ。表面的なことにしてしまうと、都合よく権力者サイドにだけ「許しと共感」が与えられて、子供には与えられないということも、起こりうる。だから、根本がね。根っこが変わらないと。難しい事ですね。
たまさん
せめて自分だけは、っていうことですね。自分が出来なきゃ他人にだってすすめられないものね。まずはそこからか~。道のりは長いが頑張ろう。たまさんが教員になったら面白そう!!
pommさん
「伝え方」って難しいですよね。最近とみにそう思います。そして「うまく伝える=自分の伝えたいことをわかってもらう」ということは「相手の背景を理解する」ことをしないと出来ないのだということも。
点で考えてる、というのはそうですね!線や円や球があってこそ点があるというのにそれを忘れてしまっている(自分も)。近頃は「自分の主張をもつことが良し」とされているけれど、点のみの主張をすることって良いことなのかしら?むしろ害なのでは。
どの線を基準として排除が始まるのか。
基準をね、相手への思いやりにしたらいいんじゃないかな。
社会システムごと。
金儲け→誰かがどこかで泣いている
成果主義→病気になる位無理してる
っていうのはもうやめて、一人一人が欲張らないでも満ち足りている、という状態を基準に物事を考えられたら、いいかも。
みんなが毎日ちょっとづつそうしていたら、みんなのまわりからひろがって、そういう世界になるんじゃないかな!!