ある人と話をして、自分がふと思ったことを、自分用の備忘録として書かせて頂きます。
【私がふと思った事】
三日月は満月ではない。
業カルマは愛ではない。
三日月も業カルマも本来は無いのだ。
実相の世界では存在しないのだ。
月に三日月という月が存在しないように、愛の世界に実相の世界に、業カルマは存在しない。
満月を三日月と認識してしまう私の心
神の愛を業カルマとして記憶してしまう私の心があるだけなのだ。
満月を三日月として認識してしまう私の心
神の愛を業カルマと認識してしまう私の心は、妄想であり、空想である。
だから私の心の中で三日月に見えているその月は、月そのものではない。
私の心に業カルマとして映っている出来事は、愛ではない。実相ではない。
どこまで行っても、私たちには三日月に見える月は三日月にしか見えず
業カルマにしか見えない出来事は、業カルマにしか見えないのだ。
だからこそ、「前提」をおくのだ。と佐藤学長は仰る。
三日月に見えるその三日月に「満月」という前提を置く。
業カルマにしか見えないその出来事に「完璧」「吉報」「これでよかった。」「神」「最高の人生」「神からのメッセージ」という前提を置く。
肉体をまとい、五感を与えられ、認識の世界で生きている私たちは、「前提」を置くしかないのだ。
だから「わかった。」はわかっていない。「わかっていない。」がわかっているのだ。
「わからない」から「前提」を置くしかない。
私には、「満月」は、月の実相は見えない。
だから「満月」を見ようとするのではない。
満月は、私には見えないのだ。
満月という「前提」を置くのだ。
その前提を置いたときに、満月に見えてくるのだ。
満月という前提を置いた瞬間から、月の形は無限に変化していく。
無限に触れた時、有限は無限に変化していく。
それが、佐藤学長の仰る「極地の認識」だと思う。
私には「満月」は見えない。実相は見えない。という前提に立つと極地の認識に至るのではないか。
極地の認識の世界にたったとき、物事が同時に、見えて、観えて、神えてくるのだ。
心の三層を同時に見て、観て、神て、この肉体をまとった人生を私は生きていく。
そのことそのものが、私が今世で生まれてきた目的を既に達成しているのだと思う。
私がふと思ったこと(笑)でした。
ありがとうございました。