両親、兄弟姉妹、恋人、友人、先輩と、
私たちが生まれてからこの世で出会う多くの人たちとの「縁」といった
ものは、どんな意味や目的があるのでしょうか。
<私たちがこの世に生まれてから出会う人たちとの「縁」の意味>
江原啓之氏の主護霊である昌清霊は、
「出会う者はすべて、みずからの類魂に関わりのある類魂たちじゃ」
「ぬしらはみな、実はぬしらの類魂と親和性のある類魂との関わりのなかで
生きているのじゃ。」
「ごまんといるこの現世に生きる者のなかで、同じ時を生き、そのなかで
出会う者たちは、良きにつけ悪しきにつけ、すべてはぬしらの『広義の
類魂」の部分であるわけじゃ。」
と伝えてきています。
ですから、私たちが出会う人たちは、みな広い意味での類魂であり、
あの世(精神世界)へ帰ったときには、自分の類魂に近い存在の類魂として
関わり合っているということです。
「類魂とI・T(意識の集合体) 江原啓之氏と坂本政道氏との共通点② 」で
紹介しましたが、
江原啓之氏のいう「狭義の類魂」は坂本政道氏の言われる自分の意識の集合体
(I・T)に通じ、
今回、江原啓之氏の主護霊が説明した「広義の類魂」というのは、まさに坂本
政道氏が体外離脱体験で見てきた、I・Tクラスター「『自分と関係の深いI・
T』と『自分の意識の集合体(I・T)』とが繋がっている世界(フォーカス36
~42)」に通じると見ることが出来ます。
「類魂とI・T(意識の集合体) 江原啓之氏と坂本政道氏との共通点② 」で
紹介した時点では、江原啓之氏(正しくは昌清霊)の言葉の中で「狭義の類魂」
までしか、つかめていませんでしたが「広義の類魂」というあの世での関わりの
説明と出会い、
あぁ、江原啓之氏の主護霊による「あの世での魂同士の関わり」の仕組みは、
モンロー研究所で体脱体験を通して坂本政道氏が見てきた「あの世での魂同士
の繋がり」は、まさに同じであることが分かりました。
同じということは「真実は1つ」
ということであり、あの世の世界の説明は、矛盾していないということです。
そして、昌清霊は、
「百人の知り合いがいるとすれば、百人通りの性格があろう。」
「しかし、そのすべてがみずからに内在する部分じゃ。」
<ここがポイント>
「その部分なき者とは、縁が続かぬ。」
「言い換えれば、みずからのたましいにない者たちに出会うことはない、
ということじゃ」
「たとえ、どのような心みにくく見える相手の出会いがあったとて、それは
みずからのたましいの部分である。」
「または、みずからのたましいの一部分なのじゃ。」
と伝えてきています。
「みずからのたましいにない者との出会いは、ない。」そうです。
私がスピリチュアルな書籍を読む中で、ふと考えた「縁」を書いてみます。
なぜ、そのようにまとめようと思ったのか、
それは、↑にある昌清霊の言葉「その部分なき者とは、縁が続かぬ。」
という関わりです。
どうしても、気が合わない人っていますよね。
仕事上や集まりで出会って・・・表面的には話しても、次も会いたいとは思わない人。
小学校、中学校、高等学校における教室内のクラスメイト。
私は、出会いは「必然」と思いますが、上記の関係の人(魂)の中には、
それは「出会った」のですから、広義の類魂の人もいるでしょう。
一生涯の気の合う親友がそうです。
しかし、絶対に内面の部分でもない、「縁の続かない魂」も、
この学校教育の中で出会う(出会ってしまう)と思います。
それは、それで「この時期、このような魂(良くも悪くも)と出会い、
何かしらの影響や経験をする」と自分自身が生前に決めてきているのでしょう
けど、そういった「輩の魂」に「いじめ」を受けたりして、自殺して
しまうということもあるのではないでしょうか。
※いじめ自殺の記事を数件、このブログで取り上げています。
親兄弟、亡き彼女やそのご家族、親友、仕事で出会い打ち解けられる
会社の同僚などは、まさしく!あの世で「前世は兄弟だったから、今度は親子
としよう。」や「前世は親子だったから、次は親友」と、かなり個で決めてきて
いる素晴らしい類魂の繋がりでしょう。(親和性のある類魂)
しかし、前世まで関わりがなく、この度出会った「繋がりのない魂」とは、
本来続かない存在であるにも関わらず、「クラスメイト」という枠組みに入れら
れ、否応なく最低1年は過ごさないといけないことも、絶対にあると思います。
それも、試練の1つですから。
言い換えると、
試練は、生前決めてきていること→だから、その決めた試練に見合う新しい魂
と出会う→この出会いも、良いように考えると広義の「『必然的』な出会い」でしょうか。
悪い出会いだけではなく、良き出会い、自分と似ている縁のなかった魂と、今世
から類魂(グループソウル)の一員となることもあるとは聞いていますが、
出来れば、自分と関わりのある類魂でもたくさんあるそうですから出会わずに、
自分はこの世を去るということも多々あるそうですので、それなら縁のある類魂
と出きるだけこの世でいっぱい会いたいです。
・前世からの関わりの深い類魂から来た魂で、この度の学びにも関わり、身近に
いたり出会ったたましい
・過去世に大変深かった類魂からこの世の同じ時代に生まれている魂で、まだ出
会っていないたましい
・自分自身の魂が生前、試練のために決めてきたことに関して出会った親和性の
ある類魂から来た魂ではない、たましい
(本来:みずからに内在する部分もない、縁が続かぬ魂)
「出会い=必然」
にもこの3パターンの「出会い」がありそうです。
確かに、言い方によっては「まったく関わりや関係のない人はいない」
「そのような人とは出会わない」とも言い換えることができるでしょうね。
だから、学生さんなどは、気の合わないクラスメイトなどとは「小学6年間
・中学3年間・高校3年間の辛抱」と思って乗り越えてほしいです。
私たちが生まれてからこの世で出会う多くの人たちとの「縁」といった
ものは、どんな意味や目的があるのでしょうか。
<私たちがこの世に生まれてから出会う人たちとの「縁」の意味>
江原啓之氏の主護霊である昌清霊は、
「出会う者はすべて、みずからの類魂に関わりのある類魂たちじゃ」
「ぬしらはみな、実はぬしらの類魂と親和性のある類魂との関わりのなかで
生きているのじゃ。」
「ごまんといるこの現世に生きる者のなかで、同じ時を生き、そのなかで
出会う者たちは、良きにつけ悪しきにつけ、すべてはぬしらの『広義の
類魂」の部分であるわけじゃ。」
と伝えてきています。
ですから、私たちが出会う人たちは、みな広い意味での類魂であり、
あの世(精神世界)へ帰ったときには、自分の類魂に近い存在の類魂として
関わり合っているということです。
「類魂とI・T(意識の集合体) 江原啓之氏と坂本政道氏との共通点② 」で
紹介しましたが、
江原啓之氏のいう「狭義の類魂」は坂本政道氏の言われる自分の意識の集合体
(I・T)に通じ、
今回、江原啓之氏の主護霊が説明した「広義の類魂」というのは、まさに坂本
政道氏が体外離脱体験で見てきた、I・Tクラスター「『自分と関係の深いI・
T』と『自分の意識の集合体(I・T)』とが繋がっている世界(フォーカス36
~42)」に通じると見ることが出来ます。
「類魂とI・T(意識の集合体) 江原啓之氏と坂本政道氏との共通点② 」で
紹介した時点では、江原啓之氏(正しくは昌清霊)の言葉の中で「狭義の類魂」
までしか、つかめていませんでしたが「広義の類魂」というあの世での関わりの
説明と出会い、
あぁ、江原啓之氏の主護霊による「あの世での魂同士の関わり」の仕組みは、
モンロー研究所で体脱体験を通して坂本政道氏が見てきた「あの世での魂同士
の繋がり」は、まさに同じであることが分かりました。
同じということは「真実は1つ」
ということであり、あの世の世界の説明は、矛盾していないということです。
そして、昌清霊は、
「百人の知り合いがいるとすれば、百人通りの性格があろう。」
「しかし、そのすべてがみずからに内在する部分じゃ。」
<ここがポイント>
「その部分なき者とは、縁が続かぬ。」
「言い換えれば、みずからのたましいにない者たちに出会うことはない、
ということじゃ」
「たとえ、どのような心みにくく見える相手の出会いがあったとて、それは
みずからのたましいの部分である。」
「または、みずからのたましいの一部分なのじゃ。」
と伝えてきています。
「みずからのたましいにない者との出会いは、ない。」そうです。
私がスピリチュアルな書籍を読む中で、ふと考えた「縁」を書いてみます。
なぜ、そのようにまとめようと思ったのか、
それは、↑にある昌清霊の言葉「その部分なき者とは、縁が続かぬ。」
という関わりです。
どうしても、気が合わない人っていますよね。
仕事上や集まりで出会って・・・表面的には話しても、次も会いたいとは思わない人。
小学校、中学校、高等学校における教室内のクラスメイト。
私は、出会いは「必然」と思いますが、上記の関係の人(魂)の中には、
それは「出会った」のですから、広義の類魂の人もいるでしょう。
一生涯の気の合う親友がそうです。
しかし、絶対に内面の部分でもない、「縁の続かない魂」も、
この学校教育の中で出会う(出会ってしまう)と思います。
それは、それで「この時期、このような魂(良くも悪くも)と出会い、
何かしらの影響や経験をする」と自分自身が生前に決めてきているのでしょう
けど、そういった「輩の魂」に「いじめ」を受けたりして、自殺して
しまうということもあるのではないでしょうか。
※いじめ自殺の記事を数件、このブログで取り上げています。
親兄弟、亡き彼女やそのご家族、親友、仕事で出会い打ち解けられる
会社の同僚などは、まさしく!あの世で「前世は兄弟だったから、今度は親子
としよう。」や「前世は親子だったから、次は親友」と、かなり個で決めてきて
いる素晴らしい類魂の繋がりでしょう。(親和性のある類魂)
しかし、前世まで関わりがなく、この度出会った「繋がりのない魂」とは、
本来続かない存在であるにも関わらず、「クラスメイト」という枠組みに入れら
れ、否応なく最低1年は過ごさないといけないことも、絶対にあると思います。
それも、試練の1つですから。
言い換えると、
試練は、生前決めてきていること→だから、その決めた試練に見合う新しい魂
と出会う→この出会いも、良いように考えると広義の「『必然的』な出会い」でしょうか。
悪い出会いだけではなく、良き出会い、自分と似ている縁のなかった魂と、今世
から類魂(グループソウル)の一員となることもあるとは聞いていますが、
出来れば、自分と関わりのある類魂でもたくさんあるそうですから出会わずに、
自分はこの世を去るということも多々あるそうですので、それなら縁のある類魂
と出きるだけこの世でいっぱい会いたいです。
・前世からの関わりの深い類魂から来た魂で、この度の学びにも関わり、身近に
いたり出会ったたましい
・過去世に大変深かった類魂からこの世の同じ時代に生まれている魂で、まだ出
会っていないたましい
・自分自身の魂が生前、試練のために決めてきたことに関して出会った親和性の
ある類魂から来た魂ではない、たましい
(本来:みずからに内在する部分もない、縁が続かぬ魂)
「出会い=必然」
にもこの3パターンの「出会い」がありそうです。
確かに、言い方によっては「まったく関わりや関係のない人はいない」
「そのような人とは出会わない」とも言い換えることができるでしょうね。
だから、学生さんなどは、気の合わないクラスメイトなどとは「小学6年間
・中学3年間・高校3年間の辛抱」と思って乗り越えてほしいです。
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