「おおしたさん」のブログです

2005年6月に始めたこのブログ、鍼灸院をやってた頃のことを含め、今も気ままに書いています。

子どもが選ぶ相手は絶対に信頼できる

2023年02月15日 | 考えていることとか思っていることとか

トレッキングポールに関してだが、使わない時にポールの3分の1くらいのところを、やや斜めに持って歩いている年寄りがいた。それも昨日だけで2,3人もである。真横に持って歩くのは論外だが、先端が少しでも後を向いているだけで、遠くからでも近寄りがたく感じてしまう。


子どもが選ぶ相手は絶対に信頼できる

このブログ(↑↑ 山のマナーで??と思うこと ↑↑)に書いた、奥高尾でトレッキングポールを斜めに持って歩く年寄りに遭遇した話、街中でビニール傘を地面と水平に持つ危険な行為をしないように、山でも一般常識としてやってはいけない。著しくポピュラリティーに欠けるその行為を、それも年寄りらの会話からして、アルプス等にも頻繁に行っているような方々がである。こういう人には絶対に近づきたくないと思いながら歩いていたが、こんな些細なことにも反応してしまう小心な私だ、普段からポピュラリティへの意識に支配されているからたまったものではない。

合わない人だと思ったら静かに距離をおく。視界に入れないし反応もしない。怒ること無く不安に思うこと無くその存在を意識から消去する。もちろん表面的には普通に付き合うが、あくまでも建前にとどめる。これはとても大切な事だと思うのだが、怒りに燃料投下し続ける人が多すぎる。なぜに嫌な輩に支配し続けられようとするのか、私には理解できない。

子どもに日常生活を指導するのも、合う合わないの価値基準を持たせるためだ。挨拶ができる、靴をそろえる、年配の方に席を譲る等々、これが小さい頃から無意識にできるようになれば、相手を推し量る上での大切な物差しの一つとなる。無意識のうちに挨拶を交わし、無意識のうちに相手に合わせて言葉を選ぶ。それを身につければ、それができない人を選ぶことはそうそうできない。

その辺りは教えたつもりなので、子どもが選ぶ相手は絶対に素晴らしい人だと思っている。そして自分の子どもよりも選んだ相手を全面的に信頼する。そういうものだ、子どもというものは。子どもが連れてきた相手を否定する親がいるようだが、何を教えてきたのだろうか。なぜにそのような否定が生まれるのか理解できない。子どもが選んだ相手こそが子育ての集大成だ、だから私は自分の子どもよりも相手を全面的に信頼する。それくらい子どもが選ぶ人は絶対だ。

とか何とか言いつつ、自らのポピュラリティが他人に通用するかと問われたら、そう思えない自分がいる。寒い日にTシャツで外を歩いてどこから冷えていくのか確かめつつほくそ笑むとか、念仏を唱えながら一心不乱に歩いてみたりする人間だ、内面はかなりおかしいが、外面はかなり鍛えてきたので初対面の人は騙されるかもしれない。そんな自分だけの世界に生きる私だ、狭いコミュニティが性に合っているので子育ては楽しかった。そして自分自身への癒しになった。

自らが作るひとり遊びが楽しく、一人アクティビティを優先する身勝手な私である。ポピュラリティーに支配されながらも自分を貫く二面性、そんな私に言われたくはないだろうがあえて言わせていただく。そもそも個人という概念が希薄なのが日本人だ、あなたのその行為の一つ一つが吟味され、相手に合わせることをことさらに求めてくる。そんなとんでもないこの国での居心地は、自分で探していくしかない。


日本人には個人という概念が希薄というか、そもそも無かったそうだ。今では個性や自分を大切にしようとしきりに言うが、そもそも日本人は個人よりも人間関係、会話の内容よりも文脈の中にいる自分を大切にしてきた。


実は外見や言動がどこかおかしい人や、自分とは考えが違う者を人を忌み嫌う傾向にある。だから人間関係がうまくいかない、生きづらいと思っている人は、一度自分自身のポピュラリティを見直してみる必要があるのではないか


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