す曽野綾子さんの死去を知り、書きかけのブログを書きました。
どうせ誰もが死んでしまう。この当たり前に私は呆然となることがある。深く考えるのが恐ろしくてその問いから逃げることが多いのだが、魔がさし問いに挑んだりした時にはとんでもないことになってしまう。
だから哲学者、中島義道さんの「死に比べれば、この世に大した不幸はない」という言葉を見つけた時、必ず訪れる死について、私だけでないどころか、私以上に絶望している人を知り、安心したのを覚えている。
だが、よりよく生きるためには「どうせ誰もが死んでしまう」という問いに答え続けるしかないだなんて、なんたる地獄。死から目を逸らし死に蓋をする行為を跳ね除け不条理に立ち向かうわけだから、今の自分にできるとは思えない。
ただ哲学とはどうもそのためにあるらしい。時間、意識、善、美といった永遠の問いに難問にじっくり腰を据えて取り組み、死に向かう自分の生き方をじっくり探す。この本を読んで、哲学の新たな側面を垣間見た感じだ。
周りの態度や言動を観察し、自らの目や言葉を鍛え、本当の生き方を目指す。何食わぬ顔をして世間の単純労働に身を捧げながら、軽んじれれながら、人生の隠れ修行者となる。(中島義道著「働くことがイヤな人のための本」より)
真剣に生きるとはどういうことを言うのか。先ずは目を逸らしたいことを直視することから始める必要があるらしい。なぜ失敗したのか、なぜあのチャンスを掴まなかったのか、なぜあの子のSOSを見放したのか等々。直視し続ければ「理不尽」という豊かな材料が与えられると中島義道は言うが、中島さんの言葉を実践するには非常に重い。
あっそういえば誰かがこんな言葉を残していた。「死の直前まで生き切る」と。とにかく死を意識し豊かに生き切るだけで良いと。今書いてみて、さらにこの意味がわからなくなっている。でもなぜだか心に響いた言葉なので、いつかこの真意がわかる日がくるかもしれない。
ところで中島さんこの著書の中で、曽野綾子さんの「三秒の感謝」を紹介している。
人生を暗く考えがちの人がいるとしたら(私もその一人だったが)、人生はほとんど生きるに値しない惨憺たる場所だという現実を、日々噛みしめ続けることである。そうすれば死に易くもなる。
曽野綾子さんのこの暗いくて深い言葉に気持ちが温かくなる自分がいる。人生が差し出す不条理を日々噛み締め生きていくだけで良いと言っている感じがする。
だからこの言葉に温かみを感じるのだろう。
曽野さんにはその著書からは本当に色々と教わってきました。
ありがとうございました。
曽野綾子さん、ご冥福をお祈りします。
曽野綾子著「三秒の感謝」より
もし、その人が、自分はやや幸福な生涯を送ってきたという自覚があるなら、毎夜、寝る前に、「今日死んでも、自分は人よりいい思いをしてきた」ということを自分に確認させることである。つまり幸福の収支決算を明日まで持ち越さずに、今日出すことなのだ。五十歳になった時から、私は毎晩一言だけ「今日までありがとうございました」と言って眠ることにした。これはたった三秒の感謝だが、これでその夜中に死んでも、一応のけじめだけはつけておけたことになる。しかしもし一方で、人生を暗く考えがちの人がいるとしたら(私もその一人だったが)、人生はほとんど生きるに値しない惨憺たる場所だという現実を、日々噛みしめ続けることである。そうすれば死に易くもなる。
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