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先日親戚のおばちゃんがホスピスで亡くなりました。
90歳にして、、
「歯が全部あるのよ!」
って自慢しまくってたおばちゃん。
かわゆかったなぁ、、、
元気に動けていた時は、ついてる管を触るんで、って、いつ行ってもナースステーションで皆さんに囲まれてたよね。
だからいつ見舞いに行っても
「またナースステーションにいるんかい!」
みたいな(^^;;
広島駅の裏手にあるホスピスに移って、、
なんだか病院らしからぬゆったりした空間に、、
ここに来るとね、私の方がね。
手を触りながらいつの間にか寝落ちしちゃうの。
そしていつの間にか爆睡(´-`).。oO
この落ち着いた空間がなせるわざなのか、
はたまたおばちゃんが醸し出す雰囲気なのか、、
そんなこんなで、
元気そうな時はあまり行かなかったけど、
衰弱し始めおばちゃんの寝る時間が増えるにつれて、ちょっと心配になっちゃい行く機会が増えて、、
ちょっとでも長く生きる、、
じゃなくって、
「ちょっとでも穏やかに死を迎えるために」
っていうホスピスのその看護のあり方。
聞いてはいたけど、
それを私も体験させてもらえたことで、
ふと考えてしまう「死の恐怖」への向き合い方を学ばせてもらった気がします。
そう、、
ちゃんと死と向き合うことの尊さ。
おばちゃんの穏やかな歩みを目の当たりにして、
- 病院での延命措置は果たして誰のためのものなのか。
- 少しでも長く生きてもらいたいという周りの願いが、本人の命の全うを蹂躙することになることもあるのではないか。
- はたして「生」の側から「死」を見るだけでいいものなのか。
- 誰もが死ぬ、という視点を無視し、「生」だけを見ようとするから、死への冒涜が起きてしまうのではないか。
生きている間に浄土に行くことが確約されるという浄土教の思想。
そう、生と死はシームレスにつながっているのではないかというあの視点。
死を内在しつつ生きていくのは辛いことだけど、生きているうちに自らの死のあり方をもう少し考えないといけないよね。
ついちょっと前まで話をしていた人がいなくなるのはとっても悲しい。
でも、人は必ず死ぬ、という事実から逃げないために、、
穏やかに最期を歩む方々のお手伝いをする医師や看護師を垣間見て、「死」というネガティブワードが少し違って見え始めているような気がします。
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