躾だのなんだの、厳しく育てられた子どもよりも、しっかり抱きしめられ甘やかされて育った子どもの方が、社会(世界)に飛び出す力を身につける。
厳しく育てられた子の反発をどう受け止めるか、親のその愛情を子どもがどのように感じているのか、往々にして親の思いと子どもの受け入れは違うので、その厳しさを愛情と認識しない子がいるのは当然である。だからそれを示す努力が必要になるのだが、日本人の性格からして、察しろとか、雰囲気で考えろとか、言葉にしないでその醸し出すもので感じろというのは、子どもにとって迷惑以外の何ものでも無い。
度を越した躾けをされてきた子や、放任の中で育った子もそうかもしれない、そういった環境で育った子どもは、新しい場所で自分を愛してくれる人がいるのか、先ずは不安から始まるので、そうそう外の世界に飛び出すことができない。だから一度作り上げたコミュニティーから離れることができず、地域で細々と生きる子どもになる事が多い。
触れ合うことを否定するような子育ては子どもの自立心を妨げ、結果的に外に飛び立ちたいという欲求の芽を摘み取ることになる。だから私はしっかり甘やかせて育てた方が良いと考えるのだが、欧米での子育てを引き合いに、一人で寝させることが良いとか、子どもを放って親の時間をちゃんと作るとか、そう言う子育てが自立に良いと思っている人が最近増えているように思う。
欧米ではだいたいにおいて親も子も自分の思いを吐き出すことを大切にする文化が根付いている。だから普段の会話が議論のようになり、ともすれば喧嘩腰にまで発展する。だから相手が不快に感じてしまうこともしばしばある。それで「そうは言ってもあなたのことは大好きだ」という意思表示を絶えずしていなければならず、握手やキス、ハグ等が必要になる。
それでも欧米流の子育てを実践するのなら、それなりに覚悟を持って、つまり子どもと言い争った後だけでなく普段からしっかと体に触れる事は大切だと思う。
ちなみに我が家は小さなアパートで4人の子どもを育ててきた。小さい家だったので、ティーンになっても子ども達に部屋をあてがうことはできなかった。だから高校生時分も6畳の部屋で親と雑魚寝であった。本当は自分の部屋が欲しかったであろうがこればかりは仕方がない。とりあえず触れ合う環境ではあったと思うが、そういう環境で育ったせいもあるのか、親子喧嘩も兄弟喧嘩も次の日には持ち越さないという不文律が自ずとできていた。そういったものが我が家のような触れ合うことが日常だった場所では、自然発生的に生まれるのかもしれない。
欧米流で子育てを否定する気はさらさら無いが、国や地域によって子育てのあり方が違うのは何故か、その地理的文化的背景も含めて子育てしないと、ただただ子育てが苦しいだけになる。
とりあえず触れる子育てをしていれば大抵のことは大丈夫である。
以前書いたブログから
2016年12月29日
アドラーの所属感
親が提供できるのは、アドラーが言う所属感くらいです。親が何をやろうが何もしないでいようが、子どもは子どもなりに育ちます。こうなって欲しいとは親の欲。「どんな未来をつかむんだろう」っていった、ドキドキワクワクで子どもの成長を見守りたいと思っています。
2020年1月8日
生きるための根を小さい時にしっかりと育てる
子どもの生きる根は触れ合いで形作られます。抱く、あやす、舐める、母乳を与える等々、この「触れる」という当たり前の行為をここまでやるのか、というほどやれば生きる根は育ちます。この根を小さい時に育てておかないと、その後いくら頭脳を鍛えても無理が生じます。
2020年10月2日
どんな子だろうと、親は子どものその子なりの生きやすさを一緒に探してあげるだけ!それだけでいいって思っているのは昔も今も変わらないです。
2020年10月10日
反抗期
思春期はある意味子育ての集大成の場。その結果を甘んじて受けるしか無いと思うのです。相手をいっぱしの大人だと思って、こちらの気持ちと提案を投げかけて終了で大丈夫です。口うるさく言えば反抗するのは当たり前です。子どもが口を聞かない時があるのは当たり前だし、親の言うことに反抗するのも当たり前です。
2021年8月10日
見ることや聞くことは、触れること味わうこと嗅ぐことに比べて体から遠く離れています。だから実体化するのが難しいですが、触覚や味覚、嗅覚を育てる前にスマホやタブレットで視覚や聴覚に頼る生活を子どもに強いるのは、服を着させず冬山に放り出すようなものと解釈して良いほどだと私は思っています。
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