台風13号が上陸しそうですね。
外苑いちょう並木界隈、伊藤忠のビルによるビル風もあってか、早朝より風が強いです。
私が浄土真宗に興味を持ったのは、五木寛之のエッセイからだと思う。そのあと倉田百三、吉本隆明からも薫陶を受け、母の死により経典も読むようになった。
素人ながら、それなりに浄土真宗を学んできた。築地本願寺のお晨朝に毎日参拝したこともあった。そんなこんなで、こちらが大いに試される感じのするこの宗教に一層興味を持つようになった。何気にブログに書いているのもあるのだろう、うつ病の患者がこの宗教に興味を示した。「歎異抄は西田幾太郎、司馬遼太郎、三木清ら著名人も絶賛しているし、解説本も多数出ているので、面白いかもしれません」と話をしたら、さっそくネットでDVDと本を購入された。それがなかなか面白かったというので聞いてみたら、現在カルトとされる親鸞会の出版社、1万年堂出版のものだった。
古い宗教は無理をしない。だって何もしなくても信者は減らないのだから。危機感を持つ必要なんて全く無い。だから法を犯すほどまでに狂暴化する必要なんてないのだ。とにかくありとあらゆる手を使って信者数増加を必須とする新興宗教に比べ、既存の宗教のネットでの存在感は恐ろしく希薄だ。
カルトの定義を「違法行為や人権侵害を行なう集団」だとすれば、現在カルトと名指しされている親鸞会は何を思うだろう。浄土真宗界隈において、ネット上でのその存在感は目を見張るものがあるこの教団、そこで思うのが法然親鸞の時代だ。爆発的なる信者拡大を行っていた浄土教の登場時、多分他宗だけでなく民衆からもカルト以上のカルトとみなされていたのではないだろうか。でなければ朝廷からの弾圧を受けるまでに至る事なんてあり得ない。だが浄土教への弾圧が強くなればなるほど信者はそれに立ち向かう。時が経ち、教義の成熟と信者数の増加により安定期を迎える。長い年月世間に晒され他宗との折り合いをつけ、急進的な部分が削がれて社会に適合していく。まだ若い創価学会や天理教等、そこまで社会の批判にさらされるまでには至っていない。それを乗り越え初めて宗教になり得ると考えれば、新教宗教と呼ばれるものは、ここからが本番なのだと思う。
とはいえ長い歴史を持つ既存の宗教もカルトに化しうる。どんな宗教も、打ちのめされたあなたの心にそっと静かに忍び寄る。私の心の隙間に忍び込んだ浄土真宗も、広義ではカルトかもしれないが、私にとっては救いだった。浄土真宗をはじめ、浄土教の阿弥陀様は、あなたがどんな犯罪をおかそうと、辛い人生を歩もうとも、あなたが好き、あなたを放さない、必ずあなたを救うと寄り添ってくれる。それもカルトかもしれないが、そう思い込ませるまでの長年の裏付け、まやかしと思おうとしてもそう思えない自分がいる。うん、それだけで生きていける。
現在、カルト問題に取り組む人々の間で共通認識にとなっている「カルト」の定義は、「違法行為や人権侵害を行なう集団」というようなものです。そんな大雑把なのかと思われるかもしれませんが、このくらいがちょうどいいとぼくは思っています。
何もエホバの証人だけでは無い。浄土真宗が行った第二次世界大戦への若者の斡旋、オウム真理教のサリン事件に、統一教会による政界への浸透工作。そういえば30年前の創価学会もすごかった。信者増やすためなら暴力団顔負けの、行け行けだったあの頃のことを思い出した。
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