言葉の力は案外と重く、頭ごなしな言葉ほど自分の首を絞める事が多い、そんな気がしてならない今日この頃…。
前にも書きましたが、逆子治療に対する胎児への言い聞かせは強制することにつながり、直りにくくなることもしばしばです。
ということで患者さんとの話しの中で…
「治す」「治したい」「早く良くなりたい」等の言葉が自分を追いつめる結果にならなければよいのですが、多くの方がこの言葉に縛り付けられ、結果治す事が難しくなる事もしばしばです。もちろん「治りたい!」という気持ちを持たない方がよい、という意味ではありません。治すためには気持ちからのリラックスが必要なのに、それらの気持ちが強ければ強いほど、逆に作用することもあるという事が言いたいわけです。
「治す」
この言葉には今の自分を否定している意味もあります。ですから「治す」ことを忘れる。そしてありのままの自分と付き合う。そこから本当の変化が訪れるような気がします。 もちろん強い気持ちを持つ事で、病に打ち勝つ事もあるでしょう。だけどそれでもなかなか治らない場合、一度そこから離れる事もありかな…なんて思うこともしばしばです。
鍼灸師のみならず、医師や歯科医師、看護師、保健師、理学療法士、柔道整復師等、医療に関わる全ての人は受け持つ患者さん全ての人に治ってもらいたいという気持ちを強く持っています。だから医療従事者は治すためにどん欲に勉強し続けるのですが、それが嵩じて「治した」気になる先生も少なくありません。
治すのはあくまでもその人であり、微妙なバランスの中で身体が治せる環境に整った時にのみ身体に変化が訪れます。
慢性化した内科的疾患ですが、本当は「病気」とは言えないかもしれません。
ガンやアトピーでさえも病気ではない!
身体が今置かれている環境で最善を尽くそうと躍起になっている、それが行き過ぎてしまい、病気という形で表れているだけかもしれません。そう考えると病気とは現在の身体が表している最良の選択なのかもしれません。
ところで「治す」「治したい」「治りたい」という言葉の裏には怒りや悲しみ怖れが付きまとうこともしばしばです。
「治す」ことをやめて「寄り添う」という言葉が口をついてきた時、病気に対する「感謝」が芽生えると同時に良い方向に向かって行く…
ひいては怒りや悲しみも生への慈しみに変化していき、身体の奥底から細胞の順化が起こり、「治る」ことにつながっていくような気がします。
これは生き方につながること。「思想」や「哲学」に近い事かもしれません。ただ、患者さんとそのような話のなかで、重篤な病の方が目線を少し変えるだけで、劇的な変化が訪れるのを目の当たりにすることで、言葉の持つ意味、気持ちがつくる身体の変化は本当に大切なんだと痛切に思った次第です。
そのような変化を起こす事が一介の鍼灸師にできるのか…
そう…鍼灸は経絡を利用できるといった、大きな武器があります。
経絡を介し、陰陽虚実を弁えて補瀉する…まさに身体のバランスを見極めて身体のためにと頑張り過ぎているガン細胞君や抗原抗体反応君達に「そんなに頑張らなくてもいいんだよ!」というようななだめる作業ができるんじゃないかと思っています。
日々氣付きですね。
私も皆さんに寄り添える治療家になるべく、これまで以上に精進しなくては…
今回は観念的な話でわかりにくかったですね。
自分自身へのメモということでお許しください。
患者さんとの会話の中でチョットした氣付きがあったもので…でも言葉にするとうまくいかないなぁ…
次回は(いつになるやら(>_<))具体的な話ができたらと思います。
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